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2017年4月10日月曜日

出会いの閉塞感

どうして、こうも、人と人との関係の構築に
難しさがあるんだろう

なにをどうと考え過ぎているんだろうか

そんな閉塞感を感じるだけで
もどかしさとちょっとした悔しさを覚える。

大学で臨床心理学専攻でもあった父と時々話をする。
父はもはや父というよりも、人生と信仰の先輩だ。

・知識は壁をつくる。
・ガード(壁)を感じると相手は引いてしまう。
・愛嬌を感じる方が好感を感じる。

若き頃はモテモテだったらしい(?)彼が言う。

「そもそも、人の交流に成功も失敗もあるの?」

なんとなく、ハッとさせられる。

どんな風に話したって
自分を受け入れてくれる人もいれば、受け入れない人もいる。
全ての人に受け入れられなくったっていいじゃない?
そう思ってはいけないの?ということだ。

とくに、お見合いパーティーでは、
自分を受け入れてくれる1人の人と出会えればいいんじゃないの?

モテると出会えるは違うのかもしれない。

ふと
これは・・・伝道と似てるかも、と思った。

全ての人に受け入れられるように福音を伝えるのは違う。
福音は変わらない、変わってはいけない真理。
それを受け入れる人もいるし、受け入れない人もいる。
でも、福音はこれだよ、と知らせる、証する・・・
それが伝道=道を伝える、ということ。

全ての人に救いは提示されている、
でも受け入れるかどうかは提示された人に委ねられている
自由意志があるのだ。

でも、提示された人に必ず受け入れられるために
「救い」が形をかえることはない。
「救い」の方法はたった一つ。


自分という存在も、オリジナル。
そのキャラクター、持っているものは、本質は変わらないし
変える必要もない。それは神様が創造されたのだから。
それを受け入れる人もいるし、受け入れない人もいる。
でも、私はこうだよ、と知らせる。
それが、自己紹介、自分を証するということ。

多くの人に、あなたという存在…神の作品が提示される
でも受け入れるかどうかは、提示された人に委ねられている
それは、提示された人の自由意志。

提示された人に必ず受け入れられるために
あなたが形をかえることはない。
あなたは、あなた。たった一つの存在。神のオリジナル作品。


このことを、お互いにやりあうのが
「お見合い」なのだと思う。
もっと平たく言えば「人と人との出会い」なのだと思うのだ。

その先の、人と人との関係性、距離感はいろいろだ。
とても身近な友達となることもあれば、
ただの知り合いになることもあるし、
唯一無二のパートナーになることもある。
それは、どの関係がいいとか悪いとかということではないと思う。
そこに、平和があれば、ベタベタくっつく必要もないし、不必要に距離を取ることもない。


私は、
その人のキャラクター、神様から与えられたもの、賜物、
つまり神の作品としての本質が
人に受け入れられるために、変えなければならない、
としたら・・・、
なんだかそれは、悲しい考え方だなと思います。

だって、それに、そんなの、できないし・・・

演じたとしたって、長い結婚生活=人間関係の中で絶対バレるし・・・

そんなことよりも、
神が私をこのように創られたのなら、
その私に合うように創られた人が
きっとどこかにいるかもしれない
その人に出会いたい!という
そういう信仰をもって祈り、行動する方が、
ずっと有益なのではないか・・・

と、思ったりする。

こうあるべき論は人を幸せに導くのか?
閉塞的な空気をつくっていくのではないか?

そんなことを、実は、ひそかに、思ったりする。





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