2016年11月21日月曜日
思い込むこと
私達は、ダメだろうと思い込むことで、どれだけ損しているだろう。
それは、思い込みであって、事実でも現実でもないのに・・・。
そんなことを私自身、思わされることがある。
今、私は、聖書の学びをしている。
通信教育でのちょっと本格的な聖書神学の学びだ。
講義を聞き、課題レポートを書いて提出する。
月に2課。2回レポートを書いて提出する。
レポートには、設問が幾つかあり、それぞれに学んだことプラスαで解答する。
受験で言えば、小論文問題みたいものだ。
多少の幅があるとはいえ、良い悪いとか感動的とか斬新とかではなく、「合っている、間違っている」の基準がきちんとあって、的を得ないと減点される。
採点評価とコメントがついて、レポートは返ってくる。
レポートを提出する時は、本当に緊張する。
合格点が取れなければ再提出しなければならないのだ。
全部、合格点を取れなければ、次の学期へも進めない。
しかも、講義を受けるたびに自分がしてきた勘違いに気づかされる。
認識のし直しの連続だ。
レポートが返ってくる時は、もっと緊張する。
「レポートが返ってきました」というメール通知がくると、胃が3センチくらい上がる気がする。怖くて、メールを開くのに、最低半日はかかる。
自分が極度の「評価恐怖症」なのではないか・・・と思うくらい
このドキドキの繰り返しだ。
さらに苦しいのは、前回のレポートの評価が悪かった、その次のレポートを書いて出す時。
また、評価が悪かったらどうしよう・・・。
なんども見直し、手直しし、らちがあかないので最後は
「いいんだ。だめだったら、再提出すればいいんだよ。そう。そうだよ!」と
自分に言い聞かせ、えいや!!と提出する。
そして、そのレポートが「返ってきました」通知が来た時・・・
本当に開くのが怖い。
頭の中で響く・・・
「あぁ、また評価悪いに決まっている。だって、やってもやっても合ってるか、的を得てるかわかんなかったもの。きっとまた、指摘がされていて、点も低いに決まっている。書き直しだ、再提出だ。あぁ、次のレポートも出さなければいけないのに…。他のやらなきゃいけないこともあるし、やばい・・・あぁ、やばい」
もう半分泣きそうになりながら、絶望的な気持ちで、
返ってきたレポートをひらく
『設問7の解答は大変良いですね。感謝。100点。』
膝から崩れ落ちた。
あぁぁぁぁ、よかった〜〜〜〜〜〜。全身から力が抜ける。
評価が良いことなんて、1ミリも想像しなかった。
どうして、想像しなかったんだろう?
前が悪かったからって、また悪いなんて、100%なことではないはずだ。
どうして、ほとんど決めつけて、絶望していたんだろう。
私たちは、思い込みというものに、本当に振り回される。
特に、「自分が理解できるものが正しい」という考え方の現代に育った私達は
つい、自分の判断が、たとえそれが感情的なものであっても、正しい!と思ってしまう。
もし、これで、大切な機会を失っていたら・・・
もし、私が、思い込みによる絶望で、レポートを提出さえしていなかったら・・・
神様が与えてくれた学びの機会を台無しに、学ぶ恵みを得ることはできなかっただろう。
気持ちが揺さぶられるのはしょうがない。
私達には、そういうものが備えられているから。
だけど、それを、上手にコントロールして、前に進むこと・・・。
それも、大切なのかな・・・と、おもう。
婚活で言えば、「次も断られるに決まってる」「次もオファーがもらえないだろう」
「いい人なんていない」「あの人もきっと合わない」「誰も自分を受け入れてはくれない」
そんな思いに苛まれるかもしれない。
さいなまれる気持ちはすごくわかる。
だけど、それは、本当に事実なの?正しい事実なの?絶対なの?と
ちょっとだけ、問うてみると、いいのかもしれない。
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