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2019年2月21日木曜日

神様は人に結婚することを望んでおられるのか?(その1)

先日、古き良きクリスチャン結婚本を読んでいる、ということを書きました。
2、30年前の本なので、背景とする時代や人の感覚が今と少し違うところもあります。

一番違うところは

当時は、結婚はするもの、ということが当たり前のように前提にあったこと。
今は、そもそも結婚をするべきか否か、という問題からはじまる、ということです。


そもそも、聖書は、結婚を勧めているのか?
神様は人に結婚することを望んでおられるのか?


この、現代独特の婚活の悩みについて
思考の旅に出てみたいと思います。
よかったら、お付き合いくださいm(_ _)m




というわけで

聖書は、結婚を勧めているのか?
神様は人に結婚することを望んでおられるのか?


まず前提として
私たちクリスチャンは、自分の心より神の御心が成るようにと願っていく。
自分がしたいことより、神がしたいと望まれることに同意していく。

もっと言えば

神がそう望まれるなら、はい!と従っていく(それが最善と信頼して)。

ということを、前提として、話を進めます。
(なので、感情的に結婚したいかしたくないか、ということはこの話には含みません)



じゃあ

神は人に、結婚を望んでいるのか?
聖書を通して、それを認めることができるのか??

よく結婚で引用されるみことばに以下のものがあります。

「すると人は言った。『これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。』それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」(創世記2:23-24)

ずっと気になっていたんです・・・

『それゆえ』

それゆえ=だから

一人の人から、取られて、二人になった。だから、二人は一体となる。


男と女はもともと一つ。もともと一体のもの。

なんですね。

そもそもは一体のものが別れ出て、二つになっている。
アダムとイヴは肉体的にも、霊的、精神的にもそうだったんですよね。

だから

元あったように一体となるのだ・・・という理屈。


今私たちは、
男女は別々で生まれてきて、出会って、結び合って、一つとなるけれど
きっと、このもともと原理
(もとは一体のものが2つになってるから、また一体となるという原理)
は変わらないのだと思います。

人の造られ方が当時とはちがうけど、
まず、別々に生まれて、それから、
その片われ、相方、まさにmissing pieceを探して、
出会って、一つとなる・・・のかもしれません。

だから、出会う相手、結婚相手は、ただの人じゃないんですよね。
誰でもいいわけじゃないし、自分の好みとかそういう次元ではなくって
お互いの霊的、肉的、精神的「片われ」。元は一つだったといえるほど、特別で代えの効かない相方、pieceなんですよね。

その組み合わせは、それこそ、私たちを造られる神にしかわからないでしょう。

「私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。(詩篇139:16,17)」

私たちの肉体だけでなくその歩み方も造られ、ご存知の神様が、
私を女もしくは男に造る段階で、その一体となるべき相方も定めて造っていても
おかしくないんじゃないか、と思うんです。

だからこそ、神の導きで出会い結ばれた方がいいの・・・ですよね。

ちなみに
おもしろいな、と思うのは、
人ができあがるのって(つまり、受精)
男と女が一体となって(精子と卵子が一体となって)
はじめて一人の人間ができあがるんですよね。
そして、聖書的に言えば、
神が結び合せる男女が肉体的に、精神的に、霊的に一つとなってはじめて一人の新しい命が生まれでる。

それ以外に、人が生まれでる方法がない・・・んですよね。

なんか、すごい!

二人がそれぞれで存在していればいい・・・というようには造られてないし
男と女が一つとなることで
「産めよ増えよ地を満たせ」が成し遂げられるようにと、体の構造も機能も造られている。
男同士でも、女同士でも、繁殖はできなくて・・・
男と女が一つになることで、増え広がるようにと、造られているんだ
ということを
あらためて思わされます。



じゃあ、
人が増え広がるためだけに、男女が造られ、一つになるようにと結婚がすすめられているのか?

不妊の夫婦関係は、神様から見て必要ないのか・・・? 

・・・つづく



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