私の家庭は、いわゆるクリスチャンホームで、
父も母もクリスチャン、同居していた祖父母もクリスチャン
夫の家庭も、いわゆるクリスチャンホームで、
義父も義母もクリスチャン、同居されていた義祖父母もクリスチャン
生まれた時から教会に連れて行ってもらっていたので
そこにもクリスチャンの夫婦や家族がおり、
今行っている教会にももちろんクリスチャンの夫婦がおり、
友人にもクリスチャン夫婦が何組かおり、CCMつながりでクリスチャン夫婦の誕生とそれからを見ている。
私も夫も
たくさんのクリスチャン夫婦を見て育ち、
とにかく家に帰れば2組のクリスチャン夫婦がいたわけだ。
クリスチャンであり、クリスチャンホームに育った・・・ということ以外に
ほぼ何の共通点もない私と夫が
唯一「だよね」と意見が一致していたことは
『クリスチャンの夫婦の一致ってなに?』
ということだった。
だって、見てきたもの。
父と母が、祖父と祖母が、全然ちがう人間で、ものの考え方も違えば、信仰も神様感もちがう。メッセージを聞いて響くところも違えば、趣向も違う。
教会への参加の仕方も違うし、、、
はっきり言って、
いつも一緒、いつも二人が同じことをしている・・・
なんてことは、ない!!
牧師夫婦はその働き上、きっと一緒にいる率は高いけど・・・
いや、それぞれもつ賜物は違うから、やっぱり分業しているところはある。
そして、なにからなにまで一致なんかしなくても、意見が同じじゃなくても
一緒になれる、家族になれるもんだ・・・と
思ってきたのだ。
そして
意見とか思いとか信仰感(?)神感(?)が一緒なことよりも
もっと大事なことがあると思っている。
それは、
「相手の考えを認めてあげ合うこと。」
「そうなんだ、そういう感じなんだね。」と思って、
その意見や考え方をもつことを認めてあげ、受け止めあう。
そして、寄り添えるところは寄り添う。
一緒に行けるところは一緒に行く。一緒に来てもらえるところは一緒に来てもらう。
なんか、そうやって、やってるんじゃないかな・・・と
数々のクリスチャン夫婦をみてきて思うし、
結婚して5年目になるけれど、私たちもそんな感じだ。
個人的には、
夫婦の意見が一致しすぎることに、ものすごく危機感を感じる。
変な方向に行った時に、止めたり、冷静さを与えたり、警告してくれる存在がなくなってしまう。
違う考え方を持っているから、私には見えない側面が彼には見える。
こんなありがたいことってないのだ。
神さまが求めている「一致」というのは、
一つのものになる、コピーのように同じになるということではないんじゃないかと思う。
じゃなかったら、神様はこの世界を、こんなに色とりどりに造らなかったんじゃないかとさえ思う。
新約聖書のパウロの言葉には「一致」とか「一つとなる」ということがよく出てくる。
1 こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、
2 私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。
3 何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。
4 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。
5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。(ピリピ2章)
ここでの「志を一つに」の「志」はギリシャ語ではフロネオー「思う」で
「思いを同じようにする」という意味。
英訳ではBeing one in love and purpose=愛と目的において一つとなれ
と訳されている。
同じ人間になれ、染まりきれ、ということではない。
手と手を合わせるように、思いを合わせる、ということなんだと思う。
ほら、手と手を合わせても手がくっついて一つの手にはならないでしょ?
手を合わせても右手は右手、左手は左手、あなたの手はあなたの手、私の手は私の手。
そして、その一致や志が一つになるために大事な鍵が3節以降。
はじめっから一致する人と一緒にいるのでもないし、
意見を戦わせて一つにするのでもない。
相手の意見をいったん尊重して受け止める。
「そうか、そういう感じなんだね」から、きっと始まる。
“ 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。”
こういう向き合い方があれば、夫婦は一緒に居続けることができるんじゃないかな、と思う。
どんなに「一緒だ!同じだ!」と思えても、やっぱり人間は一人一人違う。
でも、違いに落ち込まなくたっていい。
違ったって、孤独にはならない。全部を知っていて、決して離れない神様がいる。
そして、離れない努力をし続けてくれると、神と証人の前で誓ってくれるのが
パートナーだ。
その誓いは、神様が守ろうとしてくださるし、本人たちが破らない限り壊れない。
それだけでも、充分じゃないかな、
なんて、思うのだ。
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