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2017年8月1日火曜日

ひとりの時間

わたしは、ひとりで神様と対話をする時間を
とても大切にしています。


もともと、人の意見、声にとても左右されやすいタイプで
あれを信じてみたり、これを信じてみたりと
よさそうなものがあればすぐに飛びついてしまうし
人に言われたことを真に受けてしまい
その言葉に縛られてしまう・・・という傾向がある
そんな人間です。

その果てに

自分がよくわからなくなったと悩み
自分の心の声がきこえなくなってただただ苦しい
人にいつも裏切られたような形になりとても傷つく
何度も何度も そういうことを繰り返しました。

神様から離れて夢を追っていた時もそうだったし

夢が砕け散って
聖書に立ち戻ろうと、ふたたび教会へいくようになり
クリスチャンとして生き直してからも
そうでした。

信仰は取り戻したけれど、教会の人間関係にとても翻弄されました。
(よくあること・・・よくあることよ)

神への信頼は揺るがなかったけれど、
教会の誰も信じられず、誰にも相談できない、という状況に陥りました。
(心を開いて相談したら、逆にめっちゃ怒られる、冷たくされるという経験を複数回する)
さらに、その時期は、ちょうど311の大地震があった頃でもあり、
本当に、「孤独」という感じを味わっていました。

ぼろアパートのベッドの上、枕を思い切り濡らしながら
「もう誰も信じられない!
頼れるのも、心を開けるのも、心から相談できるのも
神様しかいないんだ!」
ということを痛感し、

そこから、だれよりも神様と会話する、ということを
本気でするようになりました。
それはいわゆる「祈り」かもしれません。

でも、私の場合は、「祈り」というより「会話」でした。
言いたいことは包み隠さず言う。いいかっこしいはしない。
まるで、小さな子どもが親に話すように。

ときに、紙にめいっぱい書いて手紙のようになったり
ときに、ひとりごとのようにバーっとしゃべっていたり
ときに、言葉にならないなにかを言葉にならないまま訴え続けたり


あらかじめ言っておきますが、
私はいわゆる聖霊派ではないし、異言の賜物もありません。
大した奇跡を見たことも、体験したこともありません。
聖書でも、メッセージでも理論的に理解し納得したい。
どちらかといえば、極めて現実主義なクリスチャンだと思います。

けれど、
嘘のような本当の話・・・
神様は、私のその吐き出すような、あまりにもフランクな、あけすけな会話を
ちゃんと聞いて受け止めてくださる、と信じられるのです。

そして、神様は必ず平安へと導いてくださるのです。

こういう神様との会話・祈りは、
あまりにも赤裸々なので、他人とはシェアできません。

ひとりの時間にしかできないです。


けれど、
ひとりの時間の、ひとりの神様との会話・祈りは

人に相談したり、何かにすがったり、
忙しさやイベントやなんかの興奮で紛らわしたり
だれか偉い人に祈ってもらったり
するよりも

ずっと明確な答えと平安にたどりつきます。
(明確な答えについては、時と聖書のみことばがもたらしてくれます)




自分の心の奥底にあるものと向き合うことは
ちょっとキツいかもしれません。
見たくないものを見つめることになるかもしれません。

でも、誰に晒すわけでもないのだし
神様にはすでにバレているのだし
あとは、自分が向き合って、正直になるだけ・・・。




そんなわけで、私は

モヤモヤするときほど

ひとりの時間を絶対にもつようにしています。

結婚しても、なおです。


人はひとりで生まれて、ひとりで還る。
ひとりで神の前に立たなければならない。

出エジプト記のモーセの「神の臨在の天幕」
のような場所を
生活の中にもつことも、大事かなと思います。



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