「神のみこころに沿った結婚を願っていきましょう・・・」
そんなごもっともなことを言われるとき
ふと思ったりしませんか?
神のみこころがわからない
神からの召命がわからない
自分にはたいした召命はないように思う
・・・
そうすると
将来のヴィジョンを描くときに
これでいいのかな?
これはみこころに沿ってるのかな?
と、迷うし、心もとない気持ちになるし
わからないから、とりあえず
今自分に与えられてるもの、やってきたこと、やれそうなことから発想を得て
ヴィジョンを描くことになる
と思うんですよね。
けれど
そもそも、神の召命とかみこころというのは
「何をするか」
ではないんじゃないか
と、思うのです。
「どう生きるか」
「その在り方」
だと思うんです。
何をするにしても
どんな状況、環境に置かれるにしても
どんな人で在りたいか
どんなマインドを持っていたいか
どんな立ち居振る舞いの人でいたいか
ということを
ヴィジョンとして描く・・・。
どう在りなさい
どんな人で在りなさい
どんなマインドをもっていなさい
ということは、
聖書にバッチリ書いてあります。
つまり、神のみこころは、聖書にバッチリ示されている。
だから
私達は、神の私達に対するみこころを知ることができるし、
神からの召命を知ることができる・・・というわけです。
不安なく、迷いなく、ヴィジョンを描くこともきっとできる。
自分を土台にして、勝手なヴィジョンを描くこともないし、
「何を通して」ということは後で自然についてくると思います。
みことばを心に受けとめていくことを通して、
「あぁ、こうありたい!」と思うことの先に、
ヴィジョンがあるような気がします。
面談や相談の中で
ときどき
結婚のヴィジョン、希望条件を聞くときに
どこの人がいい、とか
年齢はこのくらいがいい、とか
経済力がどうとか、
障害がどうとか…
環境がどうとか…
仕事がどうとか…
というオーダーを聞きながら
人としては「そうだよね」と思いつつも
「それとクリスチャンとして生きることと
どう関係があるの?」と
感じてしまうことがあります。
それはたぶん
私自身が婚活中に、
「自分がクリスチャンとして生きていくためにどんな結婚をしたいか」
という基準で相手を探し求めたからだと思います。
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