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2019年1月30日水曜日

生き方が変わってはじめて婚活できたかも・・・(これまでの歩みを振り返る)


先日、教会にダルクの方がいらっしゃり、体験を話してくださいました。
ダルクというのは、薬物(アルコール、シンナー、覚せい剤、精神安定剤、睡眠薬、風邪薬、痛み止めなどの様々な薬)がやめたくてもやめられなくなる薬物依存症に陥った人達が回復を目指す民間のリハビリ施設及びその活動です。

現在、回復を目指してプログラムを行なっている青年が、本当に正直にご自身のことを話してくれました。

それを聞いていて、正直

共感しかなかった・・・。

あぁ、私も同じ!!!の連続でした。



「思い込み、妄想が激しくて、
 職場とか集団でも、あの人がああいう態度を取るのは私をこう思ってるからだ・・・と思って。
 そう思ったらもうほぼ確信なんです、自分にとって。で、行くの嫌になったり、会うのが嫌になったり・・・」

(わかる。すっげーわかる!!!)

「でも、自分の判断って間違ってるから。自分の頭ぶっ壊れてるのがわかってるから。自分のやり方でやったら絶対失敗する」

(わかる。そうそう、そうなの!)

「だから、そういうときは、先行く者(先輩)に打ち明けて、相談する。
 まず、自分の思いを誰かに言うっていうのも本当にできなかったんだけど、まずそこから練習をして」

(うんうんうん)

「で、先行く者の方が、自分の時はこうしたよ。こうしてみたらどう?って言ってくれるので、それをやってみるんです。
 いやですよ。全然そうだなって思えないし、やりたくないなって思うことだから。
 でも、これは練習なんで、練習するしかないんで、とにかくやってみます」

(わかる。やりたくないけど、やってみる。やるしかないもんね。)

「これは練習なんで、自分の思いとは違うけど、やってみたら?ってことをやってみる。
 そしたら、意外と、相手はただ体調が悪くて不機嫌だっただけとか、自分のこととは何の関係もなかったりってことがわかったりして。思い込んでただけなんだって気づく。」

(わかる!それ、私も体験した!)


まさに、その方が取り組んでいる回復のためのプログラムは
私自身が体験したものだった・・・あれは私の回復プログラムだったんだ
と省みる思いでした。


私は、
クリスチャンでありながら放蕩した歩みをしていて
恋愛、夢を追うこと、タバコ、酒にどっぷり依存して
なのにその罪だらけの堕落した生活が行き詰まって、
自分の力ではそこから抜け出すこともできなくて
今まで信じてきた自分のやり方じゃどうにもならないことを突きつけられて

死ぬか、教会に戻るかの分かれ道みたいなところにきて
すがる思いで教会の門を叩いて

赦されてること、愛されていることを知って、涙が溢れて
もう一度生き直そうと思って

自分のやり方、自分の判断では絶〜対間違えるから
キリスト、聖書に従って歩むことを心に決めて・・・

聖書が示すことは、今までの生き方や基準と全然違うし
〜せよ、とあるけど、うわーやりたくない!辛い!と思ったけど
これは主の訓練だ!訓練しないと私は変われない!と思ってやってみて
あぁこっちでよかったんだ、正しいんだ…と体験して
少しずつ少しずつ生き方やものの見方が変わってきて・・・


ということを
主に立ち返った10年前からずっと重ねている・・・。

そう、今も私の回復プログラムは続いている。

その中で、たくさんの恵みを体験し
神様との関係が深まっていくのを少しずつ味わい
この生き方、クリスチャンであることがやめられなくなっていっている・・・。
そして、きっとこれは、一生続く・・・。

そんなことを思いながら、お話を聞かせていただきました。


もう一つ印象に残ったのが
一緒に来ていたスタッフの方(その人も以前は依存者で回復された方)が
「こうして、人前で告白することで、自分が依存者であるということを確認するというのもすごく大事なことなんです。
 自分が依存者であるということをしっかり自覚し認めることからはじまっていくんです」
とおっしゃっていました。

あぁ、私たちが自分が何者であるか、罪人である…ということを認め、それを神の前に告白する・・・という過程と同じだ・・・。
と思いました。




・・・・



いったい
婚活と何の関係があるんだ?と思うかもしれないけれど
私は
この回復プログラム的体験があったからこそ
結婚を願い祈ることができました。

だれかを安心して愛し、誰かに愛されることを受け止められるためには
私自身の生き方が変わる必要があったと思います。
以前の、依存するような恋愛関係や不安定な精神状態では
今のような幸せな結婚生活を送ることができなかっただろうなと思います。
いや、その前に、婚活しても、誰ともちゃんと出会ったり付き合ったりできなかったと思います。


神様のこれまでの導きを振り返る良い機会が与えられました。

本当に感謝なひと時でした。



2019年1月26日土曜日

神のみこころって何?(2)

つづきです。

私自身が婚活中に何を考えていたかというと、
「自分がクリスチャンとして生きていくためにどんな結婚をしたいか」
という基準で相手を探し求めていました。

もっと、究極的に言えば
「私がクリスチャンとしてのびのび生きることを妨げる要素のない結婚」
を願いました。

それ以外はなんとかなると思っていたんです。

経済的なこともなんとかなる。
場所だってどこでも生きていける(大変かもしれないけど、死にゃあしない。)
仕事もやろうと思えば何でもできる。
障害は工夫次第で共生できるかも。(私の周りには障害をもって生活してる人がたくさんいるので、抵抗感があまりないのかも)

でも、
神様を信じて生きることに反対されたり
妨害されたり、抑圧されたりすることには
我慢ならない!!
聖書を楽しみ味わい、神様に祈って会話し、常に頼り、教会へ行って交わりをし、礼拝のひとときをもち、賛美をし、献金や奉仕の捧げものをし、神に思いを馳せながら生きることを制限されたり、やめろと言われるのは
絶ーーーーーっ対にイヤだった!
残りの30年、40年、天に還るまでの人生どう過ごすかを考えたとき、
これだけは譲れなかったんです。

これって
結婚したあとで、どうにかなる…??
いや、結婚したあとではどうにかなりにくい内容だ!と思いました。
これは最初が肝心。

だから、「教会生活をしているクリスチャンの方」という条件が
私の中では最優先されました。

神様は結果的に私の譲れない願いを完璧に叶えてくださいました。

相手の家族もクリスチャンで
礼拝のスタイルに得にはこだわらなくて
教会とかクリスチャンについてだいたいわかっていて
神が第一に尊重されるべきと理解していて
私をのびのびと居させてくれて
やりたい事(ミニストリー)をさせてくれる・・・

そんな人と結婚させてくれました。
私の中にはここまで具体的なイメージはなかったけど、それさえも神は整えてくれました。

もちろん、それ以外のところでは、
カルチャーショックと言えるほど1から理解していかなければいけないこと
乗り越えていかなければいけないことはありましたけれど
たぶんそれらは、誰と結婚しても向き合うことになる課題です。
(問題のない結婚なんてないんです・・・人間同士だから)

ふとこんなみことばを思い出しました。

「ただ、おのおのが、主からいただいた分に応じ、また神がおのおのをお召しになったときのままの状態で歩むべきです。(第一コリント7:17)」

「だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。・・・あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。
まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。(マタイ6:31-33) 」

主に召され、救われ、クリスチャンとして神を第一として生きるよう導かれて今の状態があります。

結婚するにしてもしないにしてもその状態で歩むこと・・・がなにより大切なのではないかと聖書を読みながら思わされます。

第一にすべきものを本当に心の第一にしながら・・・
聖書に示された神のみこころ、神様が大事にせよとおっしゃることを本当に大事にしながら・・・
いろんなことを判断し、祈っていけたらいいな
と思います。

そして、本当に必要な具体的なことは
神様が必ずちゃんと備えてくださる・・・
そのことも本当に信じていけたら
バカみたいに委ねていけたら
すごく生きやすくなるような気もします。


2019年1月25日金曜日

神のみこころって何?(1)

「神のみこころに沿った結婚を願っていきましょう・・・」

そんなごもっともなことを言われるとき

ふと思ったりしませんか?

神のみこころがわからない
神からの召命がわからない
自分にはたいした召命はないように思う

・・・
そうすると

将来のヴィジョンを描くときに
これでいいのかな?
これはみこころに沿ってるのかな?
と、迷うし、心もとない気持ちになるし

わからないから、とりあえず
今自分に与えられてるもの、やってきたこと、やれそうなことから発想を得て
ヴィジョンを描くことになる
と思うんですよね。

けれど

そもそも、神の召命とかみこころというのは

「何をするか」

ではないんじゃないか

と、思うのです。


「どう生きるか」

「その在り方」

だと思うんです。


何をするにしても
どんな状況、環境に置かれるにしても

どんな人で在りたいか
どんなマインドを持っていたいか
どんな立ち居振る舞いの人でいたいか

ということを
ヴィジョンとして描く・・・。


どう在りなさい
どんな人で在りなさい
どんなマインドをもっていなさい

ということは、

聖書にバッチリ書いてあります。
つまり、神のみこころは、聖書にバッチリ示されている。

だから

私達は、神の私達に対するみこころを知ることができるし、
神からの召命を知ることができる・・・というわけです。

不安なく、迷いなく、ヴィジョンを描くこともきっとできる。
自分を土台にして、勝手なヴィジョンを描くこともないし、
「何を通して」ということは後で自然についてくると思います。

みことばを心に受けとめていくことを通して、
「あぁ、こうありたい!」と思うことの先に、
ヴィジョンがあるような気がします。



面談や相談の中で
ときどき
結婚のヴィジョン、希望条件を聞くときに

どこの人がいい、とか
年齢はこのくらいがいい、とか
経済力がどうとか、
障害がどうとか…
環境がどうとか…
仕事がどうとか…

というオーダーを聞きながら

人としては「そうだよね」と思いつつも

「それとクリスチャンとして生きることと
どう関係があるの?」と
感じてしまうことがあります。


それはたぶん
私自身が婚活中に、
「自分がクリスチャンとして生きていくためにどんな結婚をしたいか」
という基準で相手を探し求めたからだと思います。

(つづく・・・)


2019年1月8日火曜日

主権を認めるってどういうこと?

今朝のデボーションで
「神の主権を認める」ということが書いてあったのですが

ふと

「神の主権を認める」ってどういうこと??

と思ったのです。

これ、よく聞くわりに、簡単に説明するの難しくないですか?

私はだいたいこういうコトバに引っ掛かりを感じ、そこから探求の旅に出てしまいます(苦笑)

ちょっとだけその旅におつきあいください。

というのは、

婚活をすすめていくときに
「神の主権を認める」という姿勢は、結構重要だったりするからです。


聖書にはよく「主権」という言葉が出てきます。
聖書アプリの検索エリアに「主権」と入れて探してみるとなかなか面白いです。
多くは「神様にそれがある」というような内容で使われています。

日本語では「主権」の一言ですが
英語だと何種類かの言葉で訳されています。

dominion  支配[統治]権[力], 主権
reign  (君主・帝王などの)君臨、統治、支配、勢力、治世、御代(みよ)
kingly  王の
Potentate  主権者,君主.

Soverign  主権者、元首、君主、国王 
などなど

辞書を調べてみると
だいたい国家における・・・という意味で定義されていますが
ざっくりいうと「外部からのコントロールから自由な統治権」という意味のようです。
もともとはヨーロッパの政治において「至高性」を指す用語・概念の言葉だそうです。

これらを合わせると

主権とは
「一番高いところにあって、
 誰からのコントロールも支配も受けない、
 そして自ら以外のすべてのものを支配し、統治する権利」


と言えるかもしれません。

で、

これをもっているのが”神”・・・ということなんですよね。

で、


その対極にいるのが”私たち”

私たちにはそういった主権がない 

「一番高いところにいなくて、
 何かからのコントロールや支配を受ける側で
 統治される側」

これが”私たち”・・・ということなんですよね。

だから、
思い通りにならなかったり制約を感じるのは当然。
何かの支配下にある感じがして当然。

そして、この立場、構図は変えようがないので・・・こりゃ仕方ない、と思いました。



大事なのは、だれの支配下にいると自覚するのか。


暴君の支配下におり、悪い者に統治されていると思うと、絶望を感じちゃいますよね。

でも、統治者が素晴らしい方で、
素晴らしい環境を整え、その中に住まわせ、
統治下に居る者の幸せを願い、正しく支配してくれるなら、とても安心♪
喜んで支配されることを享受できる。お任せできる。従える。と思える気がします。

さて
私たちの統治者、支配者・・・「神」はどういう方か?


話が少し変わりますが
今、「幼児心理アドバイザー」の資格を取るべく学んでいます。
ちょうど0~2才児の発達について学んでいて、
あぁこれが人が自意識が芽生えてくるより以前に組み込まれているメカニズムなのか・・・と感心したりします。

発達心理学では、
赤ちゃんが特定の人物との間に築く緊密な絆のことを
アタッチメント(愛着)と呼ぶのだそうです。

赤ちゃんは、他者との親密な関係を築くことによって、
ネガティブな状態を低減し、安全であるという感覚を保とうとする本性があると考えられています。
その安心安全を得るために、
赤ちゃんの養育者は、
赤ちゃんにとってのピンチを察してサポートする、
いざという時に頼りになる存在であることが重要です。
そして
このアタッチメントは、楽しく遊ぶだけでは形成されない。

神様は
私たちにとって”父”であると表現されるように
養育者のような存在であり、
私たちは育てられる赤ちゃんのようでもある、と思いました。

赤ちゃんと養育者が緊密な絆を築くためには

1、養育者(神)が赤ちゃん(私たち)に「ピンチの時はサポートし、いざという時に頼りになる」ということを伝え続け

2、赤ちゃん(私たち)が養育者(神)を「ピンチを察してサポートし、いざという時に頼りになる存在」と認識すること

(そしてその絆は楽しく遊ぶような軽い浅い関わりでは形成されない。
ピンチやいざという時という、多少ネガティブやシリアスな状況を共有することも大事なんだなと思います。)

1、は聖書を通して伝え続けられています
 ・・・としたら、あとは2、。

私たちが、聖書を通して養育者(神)からのメッセージを心に受け取って、
認識を増やしていって、
アタッチメントが築かれていって、
安心安全を心に得ていく。


たぶん、それはそんなに難しいことなくて・・・。

なにか頑張って修行して聖書知識を増やすとか、とにかく聖書通読を完走するとか、
とにかく教会に出席するとか、やたらメッセージを聞いてありがたがるとか
・・・ではないような気がします。

だって・・・赤ちゃんはそんな努力とか修行とかできない・・・(笑)
さあ、成長しよう!!と意識的に向上心を持つ赤ちゃんがいたら・・・ちょっと怖い(笑)

ただただ
目を開き、耳を開き、心を開いて、
赤ちゃんが養育者を呼び寄せるように
神様を求めていけば
それらは得られるんじゃないだろうか・・・

赤子のように・・・神を求めていくこと、

から始まるような気もしてきました。

その先に、

その養護者に身を任せ、統治されることに身を任せ、

あぁ
神様は私の養護者で、私の人生を良く統治し、正しく支配し、幸せへと導いてくださる
だからお任せしよう。
神様には主権があり、私はその下に居る者です。

と、自然に思えるようになる・・・

無理なく
「神の主権を認める」
ことができるような気がしてきました♪

そして

それができたら
思い通りにいかなかったり、不安を感じたりするときに
神様とのアタッチメント、絆に立ち返って
安心と安全を心に得て、
落ち着いて祈りながら、婚活も進められるのかな、
と思います。




ふぅ、落ち着いたw

思考の旅にお付き合いいただき、ありがとうございますm(_ _)m



2019年1月5日土曜日

あけましておめでとうございます:2019年

あけましておめでとうございます。

2019年となりましたね。

新しい年を迎えられたこと、主に感謝します。

どんな状況であれ
ReStartの機会となる「節目」というものがある

だったら、
「今年もダメかも」
と思うよりは
「今年はきっといい年に」
と思いたいですよね。


でも


「毎年そう思ってスタートしてはうまくいかない・・・」

と思い出してしまうと
余計に心が苦しくなってしまう

私は

必要以上にポジティブにならなくてもいいと思うのです。

というか

自力でポジティブになろうとすると、かえって非力を感じてしまうから

あまり「ポジティブ」を頑張りたくない(苦笑)



今朝、デボーションで出エジプト記の4章を読んでいました。

主は彼に言われた。「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。 さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」 (4:11,12 新共同訳) 

エジプトに戻りユダヤ人を救い出すように神様に召されているときに必死に「できません〜」と抵抗するモーセに言われた言葉です。
そしてこの後、モーセの不得意さを補う助け手としてアロンも備えると約束してくださいます。

ここを読みながら

そうだよね、
私をつくり、育て、導き、私の体も時間も人生もすべて支配しているのは神様だよね。
だから、神様が、わたしを動かし、人生をつくり、導いてくださる。必要なものを必要な時に与え、心も体も動かしてくださるんだよね。
だから「さあ行け!」と言ってるんだよね。
神様は横に、後ろに、前に伴走してくれるんだよね。

と、改めて思ったのでした。

だとしたら、

私にできることは

”わたしを主に明け渡すこと”

”安心して、行け!と言われるまま行くこと”

自分の力や能力や限界のことで思い悩むのはやめにして
シンプルに前を向いて
神様が見せてくれる想像もつかない世界を期待する・・・


もちろん

歩み方を変えるのは
簡単なことじゃありません。

私もかつて
”主に自分を明け渡してあゆむ”
ということをあまりしてこなかったから
いざやろうとしたら
ものすごく不安定な感じがしたし
こんな主体性がない感じでいいんだろうかと思いました。

はじめは、失敗もします。
かつてのやり方と、新しいやり方の狭間で揺れ動きます。
あれ?やっぱりうまくいかないんじゃないの・・・?
前の方がやっぱりうまくいくんじゃないの・・・??


でも、
それでも”主に明け渡す” ということを信じて繰り返していくと
そっちのほうがいいことがだんだん体験的にわかっていきます。
そして、道が開かれていく・・・。
神様が自分の人生を良い方向へとぐいぐいひっぱってくれることを
体感していくようになる・・・・。
神が共にいる、なんともいえない平安に心が満たされるようになる・・・。

と、思います。


新しい年

神様が
「さあ行け!」
と言ってくださる。

「はい!」
と応答して
歩んでいけますように♪


結婚を祈っている
クリスチャンホームを築きたいと願っている
お一人一人のために
心から祈っています。


交わり会の開催は未定ですが、
ご相談はいつでも受け付けております。
また、ブログでも情報やコラムを綴っていければと思っています。

2019年もよろしくお願いします(^ ^)