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2017年4月24日月曜日

5/27(土):CCM交わり会 in 岐阜開催!!

久しぶりに
CCM交わり会を開催します。

20〜50歳くらいまでの若き(?)クリスチャンの集いです。

クリスチャンの結婚、婚活、クリスチャンライフなど、
同年代で話したい、でもなかなか話せない、ことを
ゆったりまったり分かち合い、交れたらいいなと思います。

簡単なドリンクとデザートをご用意してお待ちしています。
(差し入れ、大歓迎)

日時:5月27日(土)14:00~16:00(予定)

場所:北方キリスト教会別館<しおん館>
(岐阜県本巣郡北方町芝原東町1-10)
電車でお越しの方は、JR穂積駅へ送迎します。事前にご連絡下さい。

参加者:20〜50歳くらいまで独身クリスチャンの方、求道中の方、カップルの方、既婚クリスチャンの方、
是非お越しください♪

参加費:500円

お申込みはこちらから↓
https://ws.formzu.net/fgen/S2250328/



2017年4月22日土曜日

人生のパノラマ

実は、若かりし時・・・演劇の世界でプロになりたいと思っていました。
そのために、いろんなワークショップに参加して、いろんな種類の演技メソッド(方法)を学んだりしました。

お芝居の中で、役を演じるときに、その役の人物の人生を考えます。
演じるシーンは一部だとしても、その役の人の生まれた時から死ぬまでを考えます。
その役、つまり他人の人生を思い描くために、
まずは自分の人生を考える・・・という演劇的訓練がありました。

つまり
人生のパノラマ図を見るのです。


けれど、
私たちは、自分の人生については
自分の生きてきた時間までしかわかりません。
未来のことは、はっきりと描くことはできないのですよね。

でも、想像することはできる。
なんとなく、わかっていることも、部分的にある。
たとえば、・・・死ぬ、とか。

「人は一度死ぬことと、死んだ後さばきを受けることが定められている」
(ヘブル9:27)

みなさんの、人生のパノラマ図はどうですか?
そのパノラマは、どこまで続いていていますか?
そのパノラマには、終わりがあるのでしょうか?


人生のパノラマ図の描き方で、
人生観も結婚観も随分変わるんじゃないかなと思うのです。


黙示録を学んでから、私の人生観は変わりました。
私の人生のパノラマ図には
始まりはあるけど、終わりがない・・・!


つまり、こんな感じです。

神様に私の存在が見出されて、
肉体を持ってこの世に生まれ出て、
両親や家族や色々な人に育てられ、
中学の時に洗礼を受けて、
高校卒業とともに10年くらい信仰を離れて放蕩して、
30歳手前でボロボロになって信仰を取り戻して、
岐阜に戻って婚活して結婚して、
新しい家族ができ妻として生きるようになり、
CCMやANNIというミニストリーが与えられて、
岐阜から埼玉に移住して(イマココ)、
その後たぶんいろいろあって、
いつか肉体の死を迎えて
おそらく天にあげられて
神様にお裁きをいただいて
栄光の中で永遠の平和と平安のなかで生き続ける。
ずっとずっと・・・
そこには、すでに先に天にあげられたであろう祖父母たちがいて
地上に産まれることなく先に天に帰っちゃったタマちゃんもいて
地上で出会ったいろんな方達もいて再会して・・・
聖書に出てきたいろんな人達もいて・・・

・・・
もう、そう考えると、楽しみでしかないのです、未来が。

肉体が死んだ後にも、
生きてた頃よりもっと素晴らしい未来が待っている。

だから、先のことは心配いらない。

だから、今できることを、恐れず頑張ろうと思えるし、
今は今で、
地上に存在して息づかせていただいている意味、召命、役割があると思うから、
それをできるだけやりたいな、って思うし
それはきっと、人に継いでいく何かだと思うから
人の助けになれることがあったら、そこに手を差し伸べたいなと思うし、
今だから感じられる神様の素晴らしさとか、神さまが創ったものの素晴らしさとか
御業に触れての感動とかあると思うから、
それを存分に楽しみたいとも思う・・・わけです。


かつて、信仰から離れていた時、
死ぬのが怖くて、体が生きて元気な間になんとか幸せになりたい!成功したい!
と、とにかく生き急いでました。
いつも焦燥感に駆られて、イライラしてて、そのわりに空回り。
待つことができなくて、何もしない時間が怖い。
虚しくて、悔しくて、怖くて、絶望していたように思います。

今は、なんだかゆったりと日々を過ごし、
神の時を待つ、ということも覚えてきました。

死生観、人生のパノラマが変わるだけで
こんなにも違うのか・・・と思わされます。


みなさんの、人生のパノラマ図はどうですか?
そのパノラマは、どこまで続いていていますか?
聖書を土台に、描いてみるのも、いいかな、と思います。




2017年4月20日木曜日

エンジンとガソリン

旦那さんは、私のことを「チャッカマン」と呼びます。
急に火がついたように怒り出すからだそうです。
旦那さんにしては急なんでしょうが、私からしたらちゃんと怒る理由ときっかけがありますし、それ以上言ったら怒るという予告も出しているのですが、彼には察知できません。
(これが、男と女・・・なのか?)

チャッカマン・・・から発想が広がり
こんなことを思いました。

男性はエンジン
女性はガソリン

女性は、体調の変化により感情の起伏が不安定なところもあるので、ちょっと火がついても爆発してしまう・・・まるで油のように
でも、ご飯作ったりサポートしたり男性を助ける役割もある・・・エネルギー源にもなる

そしたら、まるで、男性はエンジン
力強く、一家を動かすための機能も備えている


でも、エンジンだけじゃ、車は走らない。
ガソリンがないと、エンジンは動かせない。
ガソリンだけでも、なにもできない。力強く目的のところまで行く力はない。

まるで、男性はエンジン、女性はガソリン、あわせて一つの車のようだ・・・と
思ったのです。

でも、エンジンとガソリンだけがあっても、うまくは前に進めない。
全体をコントロールするプログラムと、ハンドルと、それを操作する人も必要

だとしたら・・・

プログラムは聖霊、ハンドルはイエス様、操作するのは父なる神

なんちゃって



と、思ったのです。



いかがでしょう?



追伸、5月末にCCM交わり会を計画中。
詳細決まり次第、また告知します♪

2017年4月18日火曜日

「自由意志」と「善悪の知識」

最近、友人と、一緒にデボーションすることを目的に
小さな学び会を始めました。

社会人になると、忙しい生活の中で、なかなか一人でデボーションが続かなかったりします。でも、本当は、聖書に触れ、ぐっと読んでみる機会がほしい。
そんなわけで、月一で数章ずつ読み、ガイドを元に理解し、分かち合うということを始めました。
楽しいです。

さて、創世記の冒頭を学びながら
「自由意志」と「善悪の知識」の違いについて
すごく考えさせられました。

アダムとエバは、神が食べてはいけないと言って禁止した“善悪の知識の木”の実を食べました。
蛇(サタン)の誘惑をきっかけに、神の命令を破ることを選び、
神のように善悪を知るようになることを望んでしまったのです。


ここで、きっとこう思う人もいるかもしれません

「どうして、善悪を知ってはいけないの?
善悪を見極められるから、正しいことができるのではないか?」



どうでしょう?




一見、おかしくない、気もしますが、
これ・・・ほぼ、そのまま蛇の言った誘惑の言葉ではないでしょうか?
うーん、
これこそが、罪の思考の“種”のような気もします。

人は
「自分で善悪を知る」・・・に、とどまりません。
それは「自分で善悪を決める
ひいては「善悪の"基準"を決める」になっていきます。

アダムとエバも「その実は食べてはいけない」という基準を
自分たちの中で「その実は食べてもいい」に勝手に変えて、決めて、
そして食べてしまったのです。
もう、、、それはそれは一瞬で・・・。

「善悪の基準を決める」のは、神様だけが持つ権利であり、神様の権威です。
人のものではないのです。
つまり、もし私たちが勝手に善悪を決めたら、それは“越権行為”になります。
よって「自分を神のようにする」という、おそろしいことになります。

そして、
神が与えてくださった自由の中で、私たちを祝福するために与えた命令を守れなかった人類・・・
神との約束を破り、神に背を向けてしまい、神との関係に亀裂が入ってしまった人類・・・
そんな人類が、正しく「神の定める善悪」を見極めることができるでしょうか?

聖書に書かれた記録は、神との約束をまもれず、善悪の判断も間違えまくる人類の事件のオンパレードです。
とても、正しい善悪を知り判断できるとは思えない・・・。


もう一つ、私たち人間が、ちょっとだけ勘違いしていることがあるんじゃないか
と思うのです。
それは
「与えられた枠組みの中で生きることは、不自由で、不幸せだ」
「自由とは、選ぶ、決める権利を持つことで、
選べること、決められること、それこそが人の幸せなのだ」
ということです。


これって、本当でしょうか?

私たちには、創造の初めから自由意志が与えられています。
でも、
なにかを選択できるから幸せなんじゃない。
選択した先がよいものだから、幸せなんです

選択した先が悪いものだったら、幸せではないですよね?

でもどうしてそう思ってしまうのか、
そこには、自分は必ず良いものを選択できるはずだ、という奢りが隠れていルノだと思います。
だから、きっと勘違いして、「自由意志」と「善悪の知識」がワンセットにされてしまうのではないかと・・・。

でも、人は、間違えます。100%正しく判断は、できないです。

じゃあ、どうしたら幸せか?といえば、
神様が示す「必ず幸せになるよ」という道を、自分の意思で選ぶということだと思います。
なぜなら、その選びの先が「幸せなもの」だともう決まっているからです。

自由意志の1番の活かし方は
神の示す選択肢を自らの意思で選ぶこと、ではないでしょうか。
神さまが与えてくださるもの、与えてくださる枠組みの中で、自由意志を用いる。
これが、ベストで幸せな形、なのではないかと思うのです。



なんで、こんなことを、こんこんと語っているかというと、
婚活においても、似たことが言えると思ったからです。

自分にとってベストな人を、自分でわかっていると思うのは
自分に「善悪の知識」があり、判別できるという思いなのではないでしょうか。
自分で判断し、自分で決め、「ああいう人がいい、こういう人がいい、こういう人はダメ」と条件を並べ立てていく…。

それって、本当に正しいのだろうか?あっているのだろうか?
その「知識」は神様の御心と本当に同じなのだろうか?


一方、目の前に置かれた人が、神様が示す道であるかもしれないと信じ、自分の意思で受け取っていく・・・
神様の与える枠組みの中で自由意志をもち、悩んだり信じたりしながら進む・・・

まさに、この方法で結婚していったカップルを本当に何組も見てきました。
そして、どのカップルも、
苦労がないわけではないけれど、とても幸せそうで、安定した平安があるように見えます。

私たち夫婦も、こんな感じで結婚に導かれ、5年目となります。苦労もあるし事件も起こる、基本的に平凡な家庭ですが、本当に幸せです。


より幸せな生き方、幸せな人生の進み方のヒントは
聖書にあると、私は確信しています。

神のみ言葉をともしびにして、
聖書が示すことを選びとって、
未来へと歩んでいけたら、
本当の幸福はそこにあるんじゃないかなぁ、と思います。

私自身も、それを祈り求めていきたいなぁ、と切に願っています。




2017年4月16日日曜日

クリスチャンとノンクリスチャンとの結婚

クリスチャンとの結婚を祈っているという方がほとんどのCCMですが
「絶対そうあるべき」とうたっているわけではありません。

けれど、想像以上の、クリスチャンとノンクリスチャンとの結婚の難しさ
について、最近考えさせられたので、少し書いてみようと思います。

自身がクリスチャンで、ノンクリスチャンの方と結婚する…
もちろん結婚前に、結婚しても教会へ行き続けたいこと、できれば一緒に行って欲しいこと、願わくば信仰を持って欲しいと祈っていること、を伝えてあり
お相手も理解し、わかったと返事をします。

けれど

何につけてもですが

結婚したら、本性がでる

結婚前は、結婚したいから、好かれたいから、いい関係を保ちたいから
いい返事をする…ということもあります。
いい返事をもらえれば、相手は自分に賛成しているようにみえるでしょう。

けれど、これは、けして「賛成しているわけではない」のだそうです。
つまり、価値観が同じになっているわけではない、場合もあるということです。

もともとノンクリスチャンで、母(クリスチャン)との交際をきっかけに
クリスチャンになったという私の父
(納得して受洗しクリスチャンになってから結婚しましたが)

母と付き合っていた頃、
クリスチャンである彼女に対してどう思っていたかというと

「反対しないだけいいだろ」
「君の価値観に、反対はしていないじゃないか」

…だったそうです。

でもこれは、同じ方向を見ているというわけではないですよね。

「反対していない」
そして、「賛成もしていない」

これは、実際は、反対しているのと同じこと
とても「同じ思いだ」とは感じられないものですよね。
聞いたら寂しさ、悲しさが伴います。

反対しない
興味がない
関心がない

は、賛成している、同じ方向を見ていることにはなりません。

そして、
いつでも、違う方向に走りだす可能性があるのです。

なにか気に入らないことが起きた時
「反対しないだけいいだろ!」に潜む小さな鬱憤が爆発する・・・。

その時、はじめて、二人の間の認識の違いに気づく・・・

思いの外マイナスからのスタートだったのだかもしれない、
想像以上に長い険しい道が待っているのかも…、と感じるのです。


でも、それでも、
神様がその結婚をゆるし、成し遂げられたのなら
そこにご計画と、その人に対する召命があるのだと思います。

だから、否定はしませんし、
すべてのノンクリスチャンと結婚しているクリスチャンのために
その信仰が守られ勇気と忍耐が与えられるようにと、心から祈ります!
本当に本当に、心から祈ります!!!


もちろん、教派の違い、信仰スタイルの違いにおいても、
似たような「のちのちのすりあわせ」は必要だったりします。

けれど、同じ聖書の、同じ神を信じているという価値観は
ある、ない、だけで大違いだということです。
性格の不一致では共存できても、この価値観の違いは共存しがたいのです。
聖書の神を信じ、イエスキリストの十字架と死と復活を信じるという信仰は
人生の根幹に当たる価値観です。
これを捨てたら、人生の生き方はまるで違う。
これをもったら、人生の生き方はまるで変わる。
「信仰」とはそういうものなはずだ、と思うのです。

教団・教派とか、礼拝スタイルとか、つかう聖書の違いとか、賛美のスタイルとか
そういう表面的なことではなくて
もっと根本的な「信仰」というアイデンティティーについて
あらためて確認してみるのも、大切かもしれないな、と思います。


2017年4月14日金曜日

失言も乗り越えられる関係

4月になると
はじめて旦那さんと会い、あちこち行ったことを思い出します。
私たちの出会いはお見合いで、4/1でした。春の良い季節に出会ったので
デートであちこちいくのは楽しかったです。

お付き合い
婚約
結婚準備
結婚式
結婚生活・・・
を振り返ってみて思うのは

お互い、たくさんの失言も失態も失敗もあった(今もある)ということです。
それを「エ!?」とか、「イヤだな」とか、「なんだよ!」とか、思ったり思われたりもします(今もある)
でもそれでも、それが「一緒にいよう」という思いを超えることはなかった
話し合ったり、ゆるしたり、ゆるされたり
で乗り越えてきたわけです。

もしこれが

少しでも
失言してはいけない
失態、失敗したら壊れる
そういうものなら、
はじめから結婚とか、ありえない・・・と思うのです。


婚活や恋愛アドバイスの
「あれやっちゃだめ、これやっちゃだめ論」
を見るたびに感じていた違和感は
多分これだと思います。

お付き合いの段階で、がんばって失言、失態をしないよう気をつけられたとしても、
結婚したら隠し切ることはできません。毎日一緒にいるし、それが30年40年とつづくのですから。
もし、結婚してしまってから、受け入れがたい失言や失態を目の当たりにし、向き合わなければならなくなるとしたら、結婚生活のスタートはいきなり辛いものにならないでしょうか?
それとも、例えそうでも、とにかく結婚できればいい!とすすめるべきなのでしょうか?


失言と思うポイント、思わないポイント
聞いて傷つくポイント、傷つかないポイント
見てイヤだと感じるポイント、感じないポイント
そういうものは、人によって違います。
体臭や匂いのように、それがムリ!て思う人もいれば好きと思う人がいる
ということに似ています。

だから

自分のパズルのピースに合うピースの人を探す、出会う

なんとなく

究極的には

これに尽きるのではないかと思うのです。



けれど
他人の多くをゆるせない心というのは
婚活を困難にするだろうな、と思います。

自分の多くをゆるされた
その恵みと愛を本当に確信し実感するなら

たぶん
婚活に関わらず
ひとの多くをゆるせたり、批判せずに見守ったり受け止めたり
できるはずなんじゃないかな、
と思うのだけど…


婚活を重ねるごとに
人を見る目が厳しくなっていったり
壁が高くなっていくのは

婚活を重ねるごとに
傷つき、否定、批判されたように感じて
ゆるされる恵みと愛の実感から遠ざかり
人をゆるせない気持ちが増してしまう
からかもしれない

だとしたら、

そのたびに、信仰に立ち返るのが一番だと思うのです。

神はあなたを愛しゆるしてくれたこと
人がどんなに否定しても神は受け入れてくれること
人は離れていっても神は共にいて独りにしないこと

ここからしか、真のエネルギーは得られないのではないか

と思ったりします。

2017年4月12日水曜日

婚活に成功法はあるの?

婚活についてのいろんな話をたくさんきく
ちょっとネットで検索すれば、たくさんの情報がでてきます。

そのほとんどは、婚活で成功するにはの方法論だと思います。

これをしたら失敗した。こうすると上手くいかない。
あれをしたらダメ、これをしないほうがいい・・・。
失敗例のオンパレードです。

ふと思うのです。
うまく行った例をあつめたら
違うデータが出てくるのではないか・・・?

失敗の反対は、・・・成功・・・なのか?


こんなとき、
聖書のことを思い返してみます。

モーセの律法の禁止令は365個、そして命令が248個の計613個あるそうです。

律法の禁止令は、これをしたら失敗…というよりは、
これをしないことが成功である、というニュアンスが強いような気がします。

ちなみに、
この律法を、受け取った民は、結局律法を守ることができませんでした。

ニンゲンの歴史は
こうしてはいけない
をことごとく破る歴史です。

罪の始まりは、
食べてはいけないを食べたこと、でした。(創世記3章)

これは、
罪の本質の一部かも知れません。
だとしたら、
人に罪がある限り
してはいけない、は、してしまいがち
なのではないか?と思うのです。


信仰が働くのは
神のすすめること、奨励を
自分の意思で選び、信じて、
そのようにするとき、だと思います。

信じなさい
に対して
信じる

愛しなさい
に対して
愛する

イエスを信じなさい
を、素直に信じる

けれど、
イエス以外を信じちゃダメ
と受け取ったら、急に
信じるのが難しく感じませんか?
(これが、受洗するかしないか迷う人の心理のような気がします)

罪には際限がありません。
これをしたらダメ論はいくらでも語れるでしょう。
でも、それを集めても、必ず成功にいたるのでしょうか?
婚活本が次から次と出版され、婚活業界がこれほど盛り上がるのは、
これはダメという方法論からは確固たる成功法がみいだせないから、のように思います。


そもそも、世界共通の婚活成功法なんて、ない。


私たちクリスチャンの救いは
救いの方法論があってそれに成功した結果なのでしょうか?
救いは自分で獲得したものなのでしょうか?

聖書は救いについてこう明言します。
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
 私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。(エペソ2:8〜10)」

救いは、私たちの成功の結果ではないです。
救いは、神様からのプレゼントであり、私たちができたのはただ信じることです。

ここにある「良い行い」の一つに、「結婚」もあるのではないかと思う。
特に、クリスチャンで神様がその人に結婚を備えておられるなら、そうかもしれないと思うのです。

だとしたら、
結婚も、救いと同じように「恵みのゆえに、信仰によって」「賜物」として与えられるのではないでしょうか。
もし、神様が備えようとし、結婚を通して大切なことをあなたに使命として与えようとしているとしたら、むしろ
「自分自身から出」ないように、「行いによって」成らないように、「誇ることがないように」、神様が導くのではないか?
とさえ思います。

CCMに関わる、結婚に導かれていった…言ってみれば成功例を集めてみると、
共通して言えることは
「神の一方的な恵みとしかいいようがない結婚だ」ということです。
「こんなこともありえるの?!」の連続です。
「神様っているんだ、人にはできないことをなされるんだ!」と
見る人が思うような結婚ばかりなのです。

だから、私は信じています。

私たちの、成功失敗にかかわらず、
いや、時に失敗のようなことをしたとしても
神様が導くときは必ずそれらを超えて導く!
恵みを受けるものとしてできるのは、神とその導きと業を
最後まで信じること、信仰を握り続けることです。
恵みは神のしごと、信仰は私たちのしごと。

そもそも、信仰なく方法論を徹底したって、
うまくはいかない、と思います。

優先するべきは、一体なんなのか、
見失わないようにしたいですね。