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2017年4月30日日曜日

秘密主義

CCMに来てくれていた、とある姉妹の結婚式でのエピソードをお分かちしたいと思います。。



「あの子いつから秘密主義になったのかしら、私、全然なにもしらなかったの」

そう言うお母さんの顔は、
ちょっと困ったような
でもうれしさが溢れ出ていました。

CCMに来てくれていた姉妹の結婚式に参加させていただき、
彼女のお母さんとお話させていただく機会がありました。
そのとき、お母さんが言った一言が、これだったのです。


なんと、CCMに来ていたことも、結婚を祈って動いていたことも、
実は実家の近くで結婚したいと思っていたことも、
お母さんはなにも聞かされていなかったのだそうです。

CCMに来る時も、ただ「どこどこへいく」と言っただけで、何をしにいくかは言わなかったそうです。
結婚式のタイムスケジュールさえ、2日前に初めて聞いたの、と言っていました。

実は、
婚活の交わりの中で、また相談の中で、彼女はお母さんのことをとても気にしていました。
というか、心配していました。
家族を大事にしていたし、娘としていろいろと考えていて、
そのことを分かち合ってくれていました。

CCMや二人では、深く話し合ったり、祈りあったりしました。
けれど、家族には、ほとんど何も言わず、「秘密主義」を通していたのです。

ちょっと驚いたのと同時に、
彼女の強い意志、決意のようなものを
感じました。

家族と一緒に住みながら、
家族に明かさない、というのは
結構決心のいることで、少し孤独を感じるかもしれない
と思うのです。

けれど、
そのぶん、彼女と神様の関係はより深められたのではないかと思います。

神様は彼女の祈りをよくよく知り、受け止めてくださり



あぁ、もしかして、

だから、あの、彼女の1番の願いにも

神様は応えてくださったのかもしれないな、

とさえ思いました。



お色直しの中座の時、
彼女はサプライズで、エスコートにお母さんを指名していました。

「いつものように呼んであげてください」という司会者にこたえ
「おかあさん」と言った彼女の目は潤んでいたように見えました。

お母さんは、びっくりしながら少女のように喜んで前へ出て来ました。

「このサプライズには、新婦の”お母さんからの自立”という思いがこもっているそうです」と司会者が説明しました。

お母さんが大好きだという気持ちと
自立し新しい歩みに踏み出す決意が
一緒にあふれているのを感じて

「あぁ、これは、愛だ」と思いました。

深い愛だ、、、と思ったのです。


手を取ってテーブルの間を歩く二人。

恥ずかしそうにはしゃぐお母さんの手と、
少し見守るように無言のありがとうを伝えるような彼女の手とは
しっかりと繋がれていて、
見ているだけであたたかい…。

彼女がこれまで悩み祈る中で決意した思いを痛いほど感じて、
私も、涙があふれてきました。

最後の花束贈呈では、
彼女も、彼女のお父さんもお母さんも号泣。
彼も、彼のお父さんもお母さんも号泣。
それを見守るゲストも涙。
祝福の香りに満ちていました。

---

家族を思いやる気持ちは、形は違えど
きっと多くの婚活している人の中にあると思います。

特に、
親が心配、ほうっておけない、
逆らえない、傷つけたらどうしよう、という思いと

自立して自分の家族を築いていきたい、という思いの間で

迷う人もいるでしょう。

けれど、

あえて家族に「秘密主義」を通す決断をした彼女の結末は

愛に溢れていたし、

親子関係も崩れなかったし、

お母さんは秘密主義にされたことを恨むことなど全くなく

娘の幸せが嬉しくて嬉しくてしょうがなくて、娘をもっと好きになる
そんな姿になっていました・・・


そういう結果があったということを、

そういうこともあるのだということを、

少しおぼえてもらえたら

励ましになるかもしれない、と思うのです。



この話には、彼女の視点からのアナザーストーリーがあります。
それはまたあらためて・・・


=お知らせ=
CCM交わり会を開催します。

20〜50歳くらいまでの若き(?)クリスチャンの集いです。

クリスチャンの結婚、婚活、クリスチャンライフなど、
同年代で話したい、でもなかなか話せない、ことを
ゆったりまったり分かち合い、交れたらいいなと思います。

簡単なドリンクとデザートをご用意してお待ちしています。
(差し入れ、大歓迎)

日時:5月27日(土)14:00~16:00(予定)

場所:北方キリスト教会別館<しおん館>
(岐阜県本巣郡北方町芝原東町1-10)
電車でお越しの方は、JR穂積駅へ送迎します。事前にご連絡下さい。

参加者:20〜50歳くらいまで独身クリスチャンの方、求道中の方、カップルの方、既婚クリスチャンの方、
是非お越しください♪

参加費:500円

お申込みはこちらから↓

2017年4月28日金曜日

人のいろいろがゆるせない

もうすぐGWですね。
今年がもう4ヶ月もたってしまうのかと思うと、
時の流れのはやさに驚いてしまいます。
(とし・・・)

5月27日にはひさびさにCCM交わり会をやりますから、
是非遊びに来て下さいね。
詳細は、この記事の最後に♪


さて

他人のいろいろが気になる…
相手のあちこちが気になる…
なんとなく「ここがゆるせない」「あれはナシだ」「そういうのはアリえない」
そんな感じで
他人のいろいろが否定的に気になってしまうことがあると思います。


私もかつて

ものすごく人に対して否定的でした。
今もその頃の癖が残っています。

それはもう、気になって気になって
イライラする。

まだ独身で東京に住んで信仰を離れ夢を追っていた頃
都会の人混みの中で、常にイライラして、
新宿のホームを歩きながら目の前の人を全員蹴り倒して歩きたい
と思うほど、常にイラついていました。

・・・

ちょっとイライラが過ぎていましたが(^ ^;)

とにかく他人のいろいろが気になり、
だいたいのことがなんか「ゆるせない」
そんな思いがしたのです。

自分の思いや考えと違うものに対して、
「そういうこともあるよね」なんて受け止める余裕もなく
違うものは「違う、おかしい」と即結論を出してしまう。

そうでなければ、やっていられなかったのかもしれません。
自分をたもてなかったのかもしれません。




でも、
今は、そうでもありません。

いつから、そうでもなくなったんだろうなぁ

と、ふと思いました。




思いめぐらしていたら、このみことばに出会いました。

「 愛には恐れがありません。
全き愛は恐れを締め出します。
なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。
恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。 (Ⅰヨハネ4:18)」

あぁ、そうか、

怖かったのかもしれない

恐れがあったんだ・・・


と思い当たりました。

怖いから、身を守るために、自分を肯定するために、周りを否定していたのかもしれない。
やはり、そうでもしなけりゃ、自分というものを保てなかったのだと思います。



けれど

その生き方にも挫折しました。
そういうのって、自分が一番苦しくなるんです。

その生き方に行き詰まって
完全に神様の前に自分を投げ出したとき

こんなボロボロな自分を愛してくれる神様を知り

その愛に満たされたとき

「もう、なにも怖いものはない・・・」

そう思えたあの瞬間

のことも思い出しました。


ちなみに、それまでの自分の愛のなさは本当にひどくて
大好きだったはずの動物や子どもまで、
どう接していいかわからないほど、「かわいい」という感情も忘れて
恐れていました。(重症・・・)


それが、しだいに回復されて、

何かを愛でることを思い出していった

その感覚も、よく覚えています。


「私たちは愛しています。
神がまず私たちを愛してくださったからです。(Ⅰヨハネ4:19)」

このみことばは、本当だなぁ、と思います。

「神は私たちに御霊を与えてくださいました。
それによって、私たちが神のうちにおり、
神も私たちのうちにおられることがわかります。 

私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、
今そのあかしをしています。 

だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、
神はその人のうちにおられ、
その人も神のうちにいます。 

私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。
神は愛です。
愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。 

このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。
それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。
なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。
(Ⅰヨハネ4:13−17)」


中学の時に洗礼を受けていましたが、

本当に心から信仰を持ったのは、たぶんあの時だと思います。

このみことばを心の奥底から「そうだ、アーメン!」と言えるし

言えるようになってから、私の人生は確かに変えられていきました。

今も変えられている途中だと思います。



だんだんと、人のいろいろが気にならなくなりました。

たぶん、人を否定しなくても、自分の考えや感覚と違っても、

自分を保てるようになったんだと思います。


どこか
「自分はこれでいいんだろうか」
「自分は間違っているかもしれない」
と思っていると、
自分という土台が揺らぐような感覚があるかもしれません。

別に、今の自分が完全だとは思わないけれど

神様は、こんな自分も愛してくれるし、
間違っていたら正しい方へ導き変えてくださる
と信じられるから、
今は「ま、いっか」と思うのです。

「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。
目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。 
神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。
私たちはこの命令をキリストから受けています。  (Ⅰヨハネ4:20-21)」

そうか、これは命令なのね・・・
と、読んで改めて思いました。

自分をあんな状態から救ってくださり
とことん愛してくださる神様に
自分はなにができるだろう?

言い尽くせない感謝をもって、神様に従い、喜ばれるようにしたい

できれば、「目に見えない神を愛」したい。


じゃあ、

兄弟を「憎まない」ところから

はじめてみようかな


他人のいろいろを、

否定し…ない

ゆるさ…なく…ない


というところから、やってみようか



そんなかんじで、

少しだけ

今までのあり方や、スタンスや、ベクトルを

変えてみるのもいいんじゃないかな、と思うのです。



なにかが・・・・変わるかもしれない。


=お知らせ=

CCM交わり会を開催します。

20〜50歳くらいまでの若き(?)クリスチャンの集いです。

クリスチャンの結婚、婚活、クリスチャンライフなど、
同年代で話したい、でもなかなか話せない、ことを
ゆったりまったり分かち合い、交れたらいいなと思います。

簡単なドリンクとデザートをご用意してお待ちしています。
(差し入れ、大歓迎)

日時:5月27日(土)14:00~16:00(予定)

場所:北方キリスト教会別館<しおん館>
(岐阜県本巣郡北方町芝原東町1-10)
電車でお越しの方は、JR穂積駅へ送迎します。事前にご連絡下さい。

参加者:20〜50歳くらいまで独身クリスチャンの方、求道中の方、カップルの方、既婚クリスチャンの方、
是非お越しください♪

参加費:500円

お申込みはこちらから↓
https://ws.formzu.net/fgen/S2250328/

2017年4月26日水曜日

愛知でクリスチャンお見合いイベント!!【P&A】

6月に
愛知県愛西市で
クリスチャンのお見合いイベントがあるそうですよ!

【第18回 P&A プリスカとアキラの会】

P&Aでは、第18回目の集会を企画いたしました。
讃美、聖書朗読、祈り、証の後、テーマトーク、1対1での自己紹介、フリートークなどを通して交流を深めます。
どうぞ奮ってご参加ください。

日時:2017年6月10日(土)PM1:30~4:30
場所:愛知県愛西市 佐織公民館2階 視聴覚室
会費:800円(場所代、茶菓代、事務費として)

*真面目に結婚をお考えのクリスチャンの方、どなたでもご参加ください。
*教派を超えた出会いの場として御考えください。
*プライバシー保護のため、電話番号やアドレス交換は、スタッフを通して行います。
*参加ご希望の方、またご質問のある方は下記スタッフまでご連絡ください。
日笠さん
yoshiehikasa2025@yahoo.co.jp
古橋さん
pisuga@ayflute.com

☆準備の都合上、一週間前を一応の締め切りとさせていただきます。

P&A協力
名古屋福音自由教会、日本キリスト改革派津島教会

結婚を祈るクリスチャンの貴重な出会いの場ですね♪

こうして、協力できること、感謝です(^ ^)

是非ー!

2017年4月24日月曜日

5/27(土):CCM交わり会 in 岐阜開催!!

久しぶりに
CCM交わり会を開催します。

20〜50歳くらいまでの若き(?)クリスチャンの集いです。

クリスチャンの結婚、婚活、クリスチャンライフなど、
同年代で話したい、でもなかなか話せない、ことを
ゆったりまったり分かち合い、交れたらいいなと思います。

簡単なドリンクとデザートをご用意してお待ちしています。
(差し入れ、大歓迎)

日時:5月27日(土)14:00~16:00(予定)

場所:北方キリスト教会別館<しおん館>
(岐阜県本巣郡北方町芝原東町1-10)
電車でお越しの方は、JR穂積駅へ送迎します。事前にご連絡下さい。

参加者:20〜50歳くらいまで独身クリスチャンの方、求道中の方、カップルの方、既婚クリスチャンの方、
是非お越しください♪

参加費:500円

お申込みはこちらから↓
https://ws.formzu.net/fgen/S2250328/



2017年4月22日土曜日

人生のパノラマ

実は、若かりし時・・・演劇の世界でプロになりたいと思っていました。
そのために、いろんなワークショップに参加して、いろんな種類の演技メソッド(方法)を学んだりしました。

お芝居の中で、役を演じるときに、その役の人物の人生を考えます。
演じるシーンは一部だとしても、その役の人の生まれた時から死ぬまでを考えます。
その役、つまり他人の人生を思い描くために、
まずは自分の人生を考える・・・という演劇的訓練がありました。

つまり
人生のパノラマ図を見るのです。


けれど、
私たちは、自分の人生については
自分の生きてきた時間までしかわかりません。
未来のことは、はっきりと描くことはできないのですよね。

でも、想像することはできる。
なんとなく、わかっていることも、部分的にある。
たとえば、・・・死ぬ、とか。

「人は一度死ぬことと、死んだ後さばきを受けることが定められている」
(ヘブル9:27)

みなさんの、人生のパノラマ図はどうですか?
そのパノラマは、どこまで続いていていますか?
そのパノラマには、終わりがあるのでしょうか?


人生のパノラマ図の描き方で、
人生観も結婚観も随分変わるんじゃないかなと思うのです。


黙示録を学んでから、私の人生観は変わりました。
私の人生のパノラマ図には
始まりはあるけど、終わりがない・・・!


つまり、こんな感じです。

神様に私の存在が見出されて、
肉体を持ってこの世に生まれ出て、
両親や家族や色々な人に育てられ、
中学の時に洗礼を受けて、
高校卒業とともに10年くらい信仰を離れて放蕩して、
30歳手前でボロボロになって信仰を取り戻して、
岐阜に戻って婚活して結婚して、
新しい家族ができ妻として生きるようになり、
CCMやANNIというミニストリーが与えられて、
岐阜から埼玉に移住して(イマココ)、
その後たぶんいろいろあって、
いつか肉体の死を迎えて
おそらく天にあげられて
神様にお裁きをいただいて
栄光の中で永遠の平和と平安のなかで生き続ける。
ずっとずっと・・・
そこには、すでに先に天にあげられたであろう祖父母たちがいて
地上に産まれることなく先に天に帰っちゃったタマちゃんもいて
地上で出会ったいろんな方達もいて再会して・・・
聖書に出てきたいろんな人達もいて・・・

・・・
もう、そう考えると、楽しみでしかないのです、未来が。

肉体が死んだ後にも、
生きてた頃よりもっと素晴らしい未来が待っている。

だから、先のことは心配いらない。

だから、今できることを、恐れず頑張ろうと思えるし、
今は今で、
地上に存在して息づかせていただいている意味、召命、役割があると思うから、
それをできるだけやりたいな、って思うし
それはきっと、人に継いでいく何かだと思うから
人の助けになれることがあったら、そこに手を差し伸べたいなと思うし、
今だから感じられる神様の素晴らしさとか、神さまが創ったものの素晴らしさとか
御業に触れての感動とかあると思うから、
それを存分に楽しみたいとも思う・・・わけです。


かつて、信仰から離れていた時、
死ぬのが怖くて、体が生きて元気な間になんとか幸せになりたい!成功したい!
と、とにかく生き急いでました。
いつも焦燥感に駆られて、イライラしてて、そのわりに空回り。
待つことができなくて、何もしない時間が怖い。
虚しくて、悔しくて、怖くて、絶望していたように思います。

今は、なんだかゆったりと日々を過ごし、
神の時を待つ、ということも覚えてきました。

死生観、人生のパノラマが変わるだけで
こんなにも違うのか・・・と思わされます。


みなさんの、人生のパノラマ図はどうですか?
そのパノラマは、どこまで続いていていますか?
聖書を土台に、描いてみるのも、いいかな、と思います。




2017年4月20日木曜日

エンジンとガソリン

旦那さんは、私のことを「チャッカマン」と呼びます。
急に火がついたように怒り出すからだそうです。
旦那さんにしては急なんでしょうが、私からしたらちゃんと怒る理由ときっかけがありますし、それ以上言ったら怒るという予告も出しているのですが、彼には察知できません。
(これが、男と女・・・なのか?)

チャッカマン・・・から発想が広がり
こんなことを思いました。

男性はエンジン
女性はガソリン

女性は、体調の変化により感情の起伏が不安定なところもあるので、ちょっと火がついても爆発してしまう・・・まるで油のように
でも、ご飯作ったりサポートしたり男性を助ける役割もある・・・エネルギー源にもなる

そしたら、まるで、男性はエンジン
力強く、一家を動かすための機能も備えている


でも、エンジンだけじゃ、車は走らない。
ガソリンがないと、エンジンは動かせない。
ガソリンだけでも、なにもできない。力強く目的のところまで行く力はない。

まるで、男性はエンジン、女性はガソリン、あわせて一つの車のようだ・・・と
思ったのです。

でも、エンジンとガソリンだけがあっても、うまくは前に進めない。
全体をコントロールするプログラムと、ハンドルと、それを操作する人も必要

だとしたら・・・

プログラムは聖霊、ハンドルはイエス様、操作するのは父なる神

なんちゃって



と、思ったのです。



いかがでしょう?



追伸、5月末にCCM交わり会を計画中。
詳細決まり次第、また告知します♪

2017年4月18日火曜日

「自由意志」と「善悪の知識」

最近、友人と、一緒にデボーションすることを目的に
小さな学び会を始めました。

社会人になると、忙しい生活の中で、なかなか一人でデボーションが続かなかったりします。でも、本当は、聖書に触れ、ぐっと読んでみる機会がほしい。
そんなわけで、月一で数章ずつ読み、ガイドを元に理解し、分かち合うということを始めました。
楽しいです。

さて、創世記の冒頭を学びながら
「自由意志」と「善悪の知識」の違いについて
すごく考えさせられました。

アダムとエバは、神が食べてはいけないと言って禁止した“善悪の知識の木”の実を食べました。
蛇(サタン)の誘惑をきっかけに、神の命令を破ることを選び、
神のように善悪を知るようになることを望んでしまったのです。


ここで、きっとこう思う人もいるかもしれません

「どうして、善悪を知ってはいけないの?
善悪を見極められるから、正しいことができるのではないか?」



どうでしょう?




一見、おかしくない、気もしますが、
これ・・・ほぼ、そのまま蛇の言った誘惑の言葉ではないでしょうか?
うーん、
これこそが、罪の思考の“種”のような気もします。

人は
「自分で善悪を知る」・・・に、とどまりません。
それは「自分で善悪を決める
ひいては「善悪の"基準"を決める」になっていきます。

アダムとエバも「その実は食べてはいけない」という基準を
自分たちの中で「その実は食べてもいい」に勝手に変えて、決めて、
そして食べてしまったのです。
もう、、、それはそれは一瞬で・・・。

「善悪の基準を決める」のは、神様だけが持つ権利であり、神様の権威です。
人のものではないのです。
つまり、もし私たちが勝手に善悪を決めたら、それは“越権行為”になります。
よって「自分を神のようにする」という、おそろしいことになります。

そして、
神が与えてくださった自由の中で、私たちを祝福するために与えた命令を守れなかった人類・・・
神との約束を破り、神に背を向けてしまい、神との関係に亀裂が入ってしまった人類・・・
そんな人類が、正しく「神の定める善悪」を見極めることができるでしょうか?

聖書に書かれた記録は、神との約束をまもれず、善悪の判断も間違えまくる人類の事件のオンパレードです。
とても、正しい善悪を知り判断できるとは思えない・・・。


もう一つ、私たち人間が、ちょっとだけ勘違いしていることがあるんじゃないか
と思うのです。
それは
「与えられた枠組みの中で生きることは、不自由で、不幸せだ」
「自由とは、選ぶ、決める権利を持つことで、
選べること、決められること、それこそが人の幸せなのだ」
ということです。


これって、本当でしょうか?

私たちには、創造の初めから自由意志が与えられています。
でも、
なにかを選択できるから幸せなんじゃない。
選択した先がよいものだから、幸せなんです

選択した先が悪いものだったら、幸せではないですよね?

でもどうしてそう思ってしまうのか、
そこには、自分は必ず良いものを選択できるはずだ、という奢りが隠れていルノだと思います。
だから、きっと勘違いして、「自由意志」と「善悪の知識」がワンセットにされてしまうのではないかと・・・。

でも、人は、間違えます。100%正しく判断は、できないです。

じゃあ、どうしたら幸せか?といえば、
神様が示す「必ず幸せになるよ」という道を、自分の意思で選ぶということだと思います。
なぜなら、その選びの先が「幸せなもの」だともう決まっているからです。

自由意志の1番の活かし方は
神の示す選択肢を自らの意思で選ぶこと、ではないでしょうか。
神さまが与えてくださるもの、与えてくださる枠組みの中で、自由意志を用いる。
これが、ベストで幸せな形、なのではないかと思うのです。



なんで、こんなことを、こんこんと語っているかというと、
婚活においても、似たことが言えると思ったからです。

自分にとってベストな人を、自分でわかっていると思うのは
自分に「善悪の知識」があり、判別できるという思いなのではないでしょうか。
自分で判断し、自分で決め、「ああいう人がいい、こういう人がいい、こういう人はダメ」と条件を並べ立てていく…。

それって、本当に正しいのだろうか?あっているのだろうか?
その「知識」は神様の御心と本当に同じなのだろうか?


一方、目の前に置かれた人が、神様が示す道であるかもしれないと信じ、自分の意思で受け取っていく・・・
神様の与える枠組みの中で自由意志をもち、悩んだり信じたりしながら進む・・・

まさに、この方法で結婚していったカップルを本当に何組も見てきました。
そして、どのカップルも、
苦労がないわけではないけれど、とても幸せそうで、安定した平安があるように見えます。

私たち夫婦も、こんな感じで結婚に導かれ、5年目となります。苦労もあるし事件も起こる、基本的に平凡な家庭ですが、本当に幸せです。


より幸せな生き方、幸せな人生の進み方のヒントは
聖書にあると、私は確信しています。

神のみ言葉をともしびにして、
聖書が示すことを選びとって、
未来へと歩んでいけたら、
本当の幸福はそこにあるんじゃないかなぁ、と思います。

私自身も、それを祈り求めていきたいなぁ、と切に願っています。




2017年4月16日日曜日

クリスチャンとノンクリスチャンとの結婚

クリスチャンとの結婚を祈っているという方がほとんどのCCMですが
「絶対そうあるべき」とうたっているわけではありません。

けれど、想像以上の、クリスチャンとノンクリスチャンとの結婚の難しさ
について、最近考えさせられたので、少し書いてみようと思います。

自身がクリスチャンで、ノンクリスチャンの方と結婚する…
もちろん結婚前に、結婚しても教会へ行き続けたいこと、できれば一緒に行って欲しいこと、願わくば信仰を持って欲しいと祈っていること、を伝えてあり
お相手も理解し、わかったと返事をします。

けれど

何につけてもですが

結婚したら、本性がでる

結婚前は、結婚したいから、好かれたいから、いい関係を保ちたいから
いい返事をする…ということもあります。
いい返事をもらえれば、相手は自分に賛成しているようにみえるでしょう。

けれど、これは、けして「賛成しているわけではない」のだそうです。
つまり、価値観が同じになっているわけではない、場合もあるということです。

もともとノンクリスチャンで、母(クリスチャン)との交際をきっかけに
クリスチャンになったという私の父
(納得して受洗しクリスチャンになってから結婚しましたが)

母と付き合っていた頃、
クリスチャンである彼女に対してどう思っていたかというと

「反対しないだけいいだろ」
「君の価値観に、反対はしていないじゃないか」

…だったそうです。

でもこれは、同じ方向を見ているというわけではないですよね。

「反対していない」
そして、「賛成もしていない」

これは、実際は、反対しているのと同じこと
とても「同じ思いだ」とは感じられないものですよね。
聞いたら寂しさ、悲しさが伴います。

反対しない
興味がない
関心がない

は、賛成している、同じ方向を見ていることにはなりません。

そして、
いつでも、違う方向に走りだす可能性があるのです。

なにか気に入らないことが起きた時
「反対しないだけいいだろ!」に潜む小さな鬱憤が爆発する・・・。

その時、はじめて、二人の間の認識の違いに気づく・・・

思いの外マイナスからのスタートだったのだかもしれない、
想像以上に長い険しい道が待っているのかも…、と感じるのです。


でも、それでも、
神様がその結婚をゆるし、成し遂げられたのなら
そこにご計画と、その人に対する召命があるのだと思います。

だから、否定はしませんし、
すべてのノンクリスチャンと結婚しているクリスチャンのために
その信仰が守られ勇気と忍耐が与えられるようにと、心から祈ります!
本当に本当に、心から祈ります!!!


もちろん、教派の違い、信仰スタイルの違いにおいても、
似たような「のちのちのすりあわせ」は必要だったりします。

けれど、同じ聖書の、同じ神を信じているという価値観は
ある、ない、だけで大違いだということです。
性格の不一致では共存できても、この価値観の違いは共存しがたいのです。
聖書の神を信じ、イエスキリストの十字架と死と復活を信じるという信仰は
人生の根幹に当たる価値観です。
これを捨てたら、人生の生き方はまるで違う。
これをもったら、人生の生き方はまるで変わる。
「信仰」とはそういうものなはずだ、と思うのです。

教団・教派とか、礼拝スタイルとか、つかう聖書の違いとか、賛美のスタイルとか
そういう表面的なことではなくて
もっと根本的な「信仰」というアイデンティティーについて
あらためて確認してみるのも、大切かもしれないな、と思います。


2017年4月14日金曜日

失言も乗り越えられる関係

4月になると
はじめて旦那さんと会い、あちこち行ったことを思い出します。
私たちの出会いはお見合いで、4/1でした。春の良い季節に出会ったので
デートであちこちいくのは楽しかったです。

お付き合い
婚約
結婚準備
結婚式
結婚生活・・・
を振り返ってみて思うのは

お互い、たくさんの失言も失態も失敗もあった(今もある)ということです。
それを「エ!?」とか、「イヤだな」とか、「なんだよ!」とか、思ったり思われたりもします(今もある)
でもそれでも、それが「一緒にいよう」という思いを超えることはなかった
話し合ったり、ゆるしたり、ゆるされたり
で乗り越えてきたわけです。

もしこれが

少しでも
失言してはいけない
失態、失敗したら壊れる
そういうものなら、
はじめから結婚とか、ありえない・・・と思うのです。


婚活や恋愛アドバイスの
「あれやっちゃだめ、これやっちゃだめ論」
を見るたびに感じていた違和感は
多分これだと思います。

お付き合いの段階で、がんばって失言、失態をしないよう気をつけられたとしても、
結婚したら隠し切ることはできません。毎日一緒にいるし、それが30年40年とつづくのですから。
もし、結婚してしまってから、受け入れがたい失言や失態を目の当たりにし、向き合わなければならなくなるとしたら、結婚生活のスタートはいきなり辛いものにならないでしょうか?
それとも、例えそうでも、とにかく結婚できればいい!とすすめるべきなのでしょうか?


失言と思うポイント、思わないポイント
聞いて傷つくポイント、傷つかないポイント
見てイヤだと感じるポイント、感じないポイント
そういうものは、人によって違います。
体臭や匂いのように、それがムリ!て思う人もいれば好きと思う人がいる
ということに似ています。

だから

自分のパズルのピースに合うピースの人を探す、出会う

なんとなく

究極的には

これに尽きるのではないかと思うのです。



けれど
他人の多くをゆるせない心というのは
婚活を困難にするだろうな、と思います。

自分の多くをゆるされた
その恵みと愛を本当に確信し実感するなら

たぶん
婚活に関わらず
ひとの多くをゆるせたり、批判せずに見守ったり受け止めたり
できるはずなんじゃないかな、
と思うのだけど…


婚活を重ねるごとに
人を見る目が厳しくなっていったり
壁が高くなっていくのは

婚活を重ねるごとに
傷つき、否定、批判されたように感じて
ゆるされる恵みと愛の実感から遠ざかり
人をゆるせない気持ちが増してしまう
からかもしれない

だとしたら、

そのたびに、信仰に立ち返るのが一番だと思うのです。

神はあなたを愛しゆるしてくれたこと
人がどんなに否定しても神は受け入れてくれること
人は離れていっても神は共にいて独りにしないこと

ここからしか、真のエネルギーは得られないのではないか

と思ったりします。

2017年4月12日水曜日

婚活に成功法はあるの?

婚活についてのいろんな話をたくさんきく
ちょっとネットで検索すれば、たくさんの情報がでてきます。

そのほとんどは、婚活で成功するにはの方法論だと思います。

これをしたら失敗した。こうすると上手くいかない。
あれをしたらダメ、これをしないほうがいい・・・。
失敗例のオンパレードです。

ふと思うのです。
うまく行った例をあつめたら
違うデータが出てくるのではないか・・・?

失敗の反対は、・・・成功・・・なのか?


こんなとき、
聖書のことを思い返してみます。

モーセの律法の禁止令は365個、そして命令が248個の計613個あるそうです。

律法の禁止令は、これをしたら失敗…というよりは、
これをしないことが成功である、というニュアンスが強いような気がします。

ちなみに、
この律法を、受け取った民は、結局律法を守ることができませんでした。

ニンゲンの歴史は
こうしてはいけない
をことごとく破る歴史です。

罪の始まりは、
食べてはいけないを食べたこと、でした。(創世記3章)

これは、
罪の本質の一部かも知れません。
だとしたら、
人に罪がある限り
してはいけない、は、してしまいがち
なのではないか?と思うのです。


信仰が働くのは
神のすすめること、奨励を
自分の意思で選び、信じて、
そのようにするとき、だと思います。

信じなさい
に対して
信じる

愛しなさい
に対して
愛する

イエスを信じなさい
を、素直に信じる

けれど、
イエス以外を信じちゃダメ
と受け取ったら、急に
信じるのが難しく感じませんか?
(これが、受洗するかしないか迷う人の心理のような気がします)

罪には際限がありません。
これをしたらダメ論はいくらでも語れるでしょう。
でも、それを集めても、必ず成功にいたるのでしょうか?
婚活本が次から次と出版され、婚活業界がこれほど盛り上がるのは、
これはダメという方法論からは確固たる成功法がみいだせないから、のように思います。


そもそも、世界共通の婚活成功法なんて、ない。


私たちクリスチャンの救いは
救いの方法論があってそれに成功した結果なのでしょうか?
救いは自分で獲得したものなのでしょうか?

聖書は救いについてこう明言します。
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
 私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。(エペソ2:8〜10)」

救いは、私たちの成功の結果ではないです。
救いは、神様からのプレゼントであり、私たちができたのはただ信じることです。

ここにある「良い行い」の一つに、「結婚」もあるのではないかと思う。
特に、クリスチャンで神様がその人に結婚を備えておられるなら、そうかもしれないと思うのです。

だとしたら、
結婚も、救いと同じように「恵みのゆえに、信仰によって」「賜物」として与えられるのではないでしょうか。
もし、神様が備えようとし、結婚を通して大切なことをあなたに使命として与えようとしているとしたら、むしろ
「自分自身から出」ないように、「行いによって」成らないように、「誇ることがないように」、神様が導くのではないか?
とさえ思います。

CCMに関わる、結婚に導かれていった…言ってみれば成功例を集めてみると、
共通して言えることは
「神の一方的な恵みとしかいいようがない結婚だ」ということです。
「こんなこともありえるの?!」の連続です。
「神様っているんだ、人にはできないことをなされるんだ!」と
見る人が思うような結婚ばかりなのです。

だから、私は信じています。

私たちの、成功失敗にかかわらず、
いや、時に失敗のようなことをしたとしても
神様が導くときは必ずそれらを超えて導く!
恵みを受けるものとしてできるのは、神とその導きと業を
最後まで信じること、信仰を握り続けることです。
恵みは神のしごと、信仰は私たちのしごと。

そもそも、信仰なく方法論を徹底したって、
うまくはいかない、と思います。

優先するべきは、一体なんなのか、
見失わないようにしたいですね。


2017年4月10日月曜日

出会いの閉塞感

どうして、こうも、人と人との関係の構築に
難しさがあるんだろう

なにをどうと考え過ぎているんだろうか

そんな閉塞感を感じるだけで
もどかしさとちょっとした悔しさを覚える。

大学で臨床心理学専攻でもあった父と時々話をする。
父はもはや父というよりも、人生と信仰の先輩だ。

・知識は壁をつくる。
・ガード(壁)を感じると相手は引いてしまう。
・愛嬌を感じる方が好感を感じる。

若き頃はモテモテだったらしい(?)彼が言う。

「そもそも、人の交流に成功も失敗もあるの?」

なんとなく、ハッとさせられる。

どんな風に話したって
自分を受け入れてくれる人もいれば、受け入れない人もいる。
全ての人に受け入れられなくったっていいじゃない?
そう思ってはいけないの?ということだ。

とくに、お見合いパーティーでは、
自分を受け入れてくれる1人の人と出会えればいいんじゃないの?

モテると出会えるは違うのかもしれない。

ふと
これは・・・伝道と似てるかも、と思った。

全ての人に受け入れられるように福音を伝えるのは違う。
福音は変わらない、変わってはいけない真理。
それを受け入れる人もいるし、受け入れない人もいる。
でも、福音はこれだよ、と知らせる、証する・・・
それが伝道=道を伝える、ということ。

全ての人に救いは提示されている、
でも受け入れるかどうかは提示された人に委ねられている
自由意志があるのだ。

でも、提示された人に必ず受け入れられるために
「救い」が形をかえることはない。
「救い」の方法はたった一つ。


自分という存在も、オリジナル。
そのキャラクター、持っているものは、本質は変わらないし
変える必要もない。それは神様が創造されたのだから。
それを受け入れる人もいるし、受け入れない人もいる。
でも、私はこうだよ、と知らせる。
それが、自己紹介、自分を証するということ。

多くの人に、あなたという存在…神の作品が提示される
でも受け入れるかどうかは、提示された人に委ねられている
それは、提示された人の自由意志。

提示された人に必ず受け入れられるために
あなたが形をかえることはない。
あなたは、あなた。たった一つの存在。神のオリジナル作品。


このことを、お互いにやりあうのが
「お見合い」なのだと思う。
もっと平たく言えば「人と人との出会い」なのだと思うのだ。

その先の、人と人との関係性、距離感はいろいろだ。
とても身近な友達となることもあれば、
ただの知り合いになることもあるし、
唯一無二のパートナーになることもある。
それは、どの関係がいいとか悪いとかということではないと思う。
そこに、平和があれば、ベタベタくっつく必要もないし、不必要に距離を取ることもない。


私は、
その人のキャラクター、神様から与えられたもの、賜物、
つまり神の作品としての本質が
人に受け入れられるために、変えなければならない、
としたら・・・、
なんだかそれは、悲しい考え方だなと思います。

だって、それに、そんなの、できないし・・・

演じたとしたって、長い結婚生活=人間関係の中で絶対バレるし・・・

そんなことよりも、
神が私をこのように創られたのなら、
その私に合うように創られた人が
きっとどこかにいるかもしれない
その人に出会いたい!という
そういう信仰をもって祈り、行動する方が、
ずっと有益なのではないか・・・

と、思ったりする。

こうあるべき論は人を幸せに導くのか?
閉塞的な空気をつくっていくのではないか?

そんなことを、実は、ひそかに、思ったりする。





2017年4月7日金曜日

祈りあった日を思い出しながら

今、埼玉から名古屋に向かっている電車の中で
これを書いています。

CCMに初期の頃から参加してくれていた方の
結婚式に参列するために、
向かっています。

本当に嬉しく思いながら
その方との数年を振り返っています。


交わり会によく来てくれたこと

はじめ女子同士でばかりいたのが
だんだんと交わりに入って来てくれたこと
(本人曰く、人見知りだったらしい)

積極的に、お見合いパーティーに参加していた姿

2人でお茶をしながら
婚活のこと、人生のこと、家族のことを真剣に話し合い
その中で流れた涙のこと

先のことなんか、彼女にも私にもわからなかったけれど
「でも、このためだったのか!」と思える
奇跡のような日がくるんだよ!
と、手探りながらも信じて
共に祈ったこと。

運命の人と出会った時の直感のことを
打ち明けてくれた帰り道のこと

彼を紹介してくれたときのこと

2人がどんどんしっくりしていった夏の日のこと

さまざまな試練がおそってきたけれど
確信はゆるがなかったあの夕方のコーヒーの味


多分、前日の今日、今この瞬間も
準備でバタバタとしていると思うけれど、

きっと大丈夫。

そしてこれからも

大丈夫。

それまでの道のりを知っているから

本当に何度も涙流して、それでも腐らずに
誠実に、まっすぐに、祈り続け行動し続けてきたことを
知っているから

彼との出会いが、いかに奇跡的で
どう考えたって神のみ手が働いたとしか
いえないってことを知っているから

このさきも、大丈夫。

こんな日が来ることを
あのときは想像できなかったけれど
見たことのないものを信じて歩んだ先に
目に見える形で表されるんだ

ということを
あらためて、教えてもらった。

それは本当に素晴らしいもので

あのときの私には想像できなかった。

明日は、それを、しかと見に行きます。


婚活サポーターとして、これ以上のご褒美はないな
幸せものだな、と思いながら

電車に揺られております。


2017年4月5日水曜日

クリスチャン婚活にオシャレは必要か?

ふと気づくと
「めんどくさい・・・」
と、ノーメイクにダボダボヨレヨレの服を着て、外に出て
夕飯の食材を買いに行ったりしてしまいます。

「いかんな・・・」

出てしまってから、やっぱりそう思って反省・・・。

そして、夫のエピソードを思い出す。
主人がまだ結婚する前、女友達(完全に友達)と飯でも食うか、となったとき、
女友達が毛玉のついたジャージで待ち合わせに登場、その服装でレストランへ入っていった。「女としてはドン引きだわ」と思ったそうです。

「このままでは、ジャージでレストランになってしまう」

基本ぐーたらで、オシャレも何も興味はないのだが、
自分をちょっとだけ奮い立たせます。


クリスチャン婚活で、オシャレは必要だろうか?
クリスチャンにとって、オシャレは必要なのだろうか?

オシャレ・・・の意味するところにもよるけれど、
「身なりを整える」ということに関して、聖書は決して否定していない。
いや、おすすめしているように思えます。

旧約聖書のモーセを通じてイスラエルの民に与えられた律法の中で、
祭司の身なりについてはかなり詳細に規定されています。
“ 彼らの作るべき衣服は次のとおりである。すなわち胸当、エポデ、衣、市松模様の服、帽子、帯である。彼らはあなたの兄弟アロンとその子たちとのために聖なる衣服を作り、祭司としてわたしに仕えさせなければならない。(出エジプト28:4)”

神の前に、民の代表として仕える者は、そういう者として
身なりを整えるようにと神様から言われているのです。
ちなみに、祭司となれるのは男性。(男性も身なりを整える必要が書かれている)

イザヤ書には
“わたしは主を大いに喜び、わが魂はわが神を楽しむ。主がわたしに救の衣を着せ、義の上衣をまとわせて、花婿が冠をいただき、花嫁が宝玉をもって飾るようにされたからである。(61:10)”
とあります。
ふさわしい身なりで、ふさわしい装飾をつけ、飾られて、主を喜び神を楽しむ、のだそうです。もちろんこの身なり装飾はリアルではなく比喩表現だけれど、
少なくとも汚いみすぼらしい格好で神を喜ぶのではないようです

  
マタイ22章におもしろい例え話があります。
“ 天国は、ひとりの王がその王子のために、婚宴を催すようなものである。
・・・王は客を迎えようとしてはいってきたが、そこに礼服をつけていないひとりの人を見て、 彼に言った、『友よ、どうしてあなたは礼服をつけないで、ここにはいってきたのですか』。しかし、彼は黙っていた。
そこで、王はそばの者たちに言った、『この者の手足をしばって、外の暗やみにほうり出せ。そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。”
婚礼の席には礼服をつける!でないと、追い出されてしまします。
TPOに合わせてあるべき身なりを整えるべき、ということが描かれています。

よく身なりで取り出されるみことばが
“ また、女はつつましい身なりをし、適度に慎み深く身を飾るべきであって、髪を編んだり、金や真珠をつけたり、高価な着物を着たりしてはいけない。(第一テモテ2:9 )”
よーく見ると
「適度に慎み深く身を飾るべき」とあります。
身を飾るなとは書いていないのです。
過度に着飾るのはおかしいけれど、「適度に身を飾る」ことはすすめられているのです。

オシャレは面倒臭い。
だから、しない。
似合わない気がする。
だから、しない。
私はこれでいいのだ。
だから、しない。

けれど、適度に身を飾る、ふさわしい身なりをする、ということは

時に備える、ということでもあるのではないでしょうか。

そう、マタイ25章の「十人の花嫁」のたとえ話を読んでいて思うのです。

“天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。
そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。 花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。
ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。
娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。 ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』
しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』 そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。 しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。
だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。”

備える・・・のは、事前にやってこそ、備える、なのです。
わたしたちは「その日、その時を知らない」

この例え話は、終わりの日について、キリストの再臨についてだけど、
私たちの人生の「時」についても同じことが言えると思います。

未来の結婚相手は、いつ現れるかわからない。
いつ運命の出会いがあるかはわからない。
だから、「備え、整えて」おいたほうがいいのではないでしょうか。
心も、身なりも。

素敵な人に会えたら、身なりを整える・・・ではたぶん遅い。

身なりというのは、人の目に大きなインパクトを与えます。

そして、身なりはその人の中身の表れ、ということも言われますよね。

ちなみに・・・バプテスマのヨハネは「らくだの毛衣に腰に皮の帯」というすごい格好をしていたけど、素晴らしい人だったじゃないか、という人がいるかもしれないけれど、
あれは、ヨハネの預言者としての正装です。旧約の時代に預言者エリヤがしていた格好で、そのことをイスラエル人は皆知っているから、一目見てヨハネをすごい預言者なんだ、とわかった、いわばしるしとなっているのです。


オシャレはめんどくさい。

でも、自分に似合い、自分らしく、自分を表現する身なりを
しっかり整えておくと、いいのではないかな、と思います。

できれば・・・

花嫁姿、花婿姿がとてもじゃないけど想像できない・・・
という身なりは、やめておいたほうがいいかもしれないですね。

私も、身なりを整えて、シャキッとしていたいと思います。


2017年4月3日月曜日

どうして結婚したいのか?

結婚についての働きをしている・・・という話をすると
「結婚したほうがいいってことですよね」というニュアンスを感じるときがあります。

けれど、本音を言えば、絶対結婚しなきゃいけない!とも、思っていません。

「一人で生きていく」と決心する。
これって、むしろすごい強いな、と私は思います。


私の場合は、かなり早い段階で
「一人では生きていけない、絶対にムリ!」という自覚がありました。

友達も、先輩も、恩師も、尊敬する人も、恋人も、
私の人生には踏み込んでくれない。私に対して責任は負ってくれない。
人は損得で、私を切り捨てたり見放したりするものだ、と思っています。
そして、私はこの孤独に耐えることができません。
神様がいる。決して私を1人にはしない。その通りです。

でも、神様以外に、家族以外に、
自分の人生にとことん一緒にいてくれる人が
一人でいいから欲しい!!

それが、私が婚活を始めた動機でもありました。
私にとって、本当に命に関わる問題でした。

このことに本気で向き合い、真剣に祈っていったとき
婚活でのパートナーの条件は、自然と絞られました。
ルックスや、肩書きや、何をしている人か、ということはほとんど気にしていなかったのは、このためだったと思います。
結果、神様は、本当にベストな人と出会わせてくださいました。
気性の激しい私を、とんでもなく広い懐で受け止めてくれ、絶対に私を見放さない人が
今私のそばにとことんいてくれます。彼以上の人はたぶんいない、と思います。本当に感謝です。

でも、
言っておきますが、
結婚すれば無条件の幸せが待っているわけではありません。
もっと言えば、結婚したら苦労は増えます。
他人同士が家族になるのですから・・・。

苦労は増える。
結婚は、1人ではあり得ない苦労と祝福をセットで引き受けることなのかもしれません。



勝ち組、負け組・・・なんて言葉がはやったこともありましたね。
でも、そもそも、結婚しなければいけない、ということはないんです。
すべての男女は結婚しなければならない、なんて聖書は命令していません。
(そんなこといったらパウロはどうなってしまうの・・・?)

そして、
結婚するしない、というのは、
必ずしも、その人の人間性と関係あるわけではないと思うのです。
結婚しなければダメな人間、てことでもないと思います。

私はこの5年、ずっと妊活をしています。
子どもが与えられるように祈りつづけていますが、与えられません。
はっきり言ってものすごい時間とお金と労力をかけて妊娠するよう努力もしました。
けれど、与えられないのです。
周りはどんどん妊娠出産していきます。心が乱れます。
自分が人としても女としても欠陥があるように思えて泣けるときがあります。
でもね、子どもができなきゃ、人としてダメなんでしょうか??

私が本当に生まれたときからお世話になっている、かわいがってくれた
子どものいないクリスチャンのご夫婦がいます。
私はその人たちのことを欠けた人たちだと思ったことは一瞬もありません。
心から尊敬し、大好きな人たちで、神に愛されていることがわかるご夫婦です。

聖書の中にも不妊の女たちが出てきます。彼女たちの姿に本当に慰められます。
神様が彼女たちを祝福しなかったわけではないということは、聖書を通してわかります。
いわずもがな、生涯独身であれほど神に仕えたパウロをダメな人間だと言えるはずもありません。


ちなみに、日本で言えば、
江戸時代の庶民の婚姻率ってどのくらいだったかご存知でしょうか?

なんと・・・5割、なのだそうです。

庶民の半分しか結婚しなかったわけです。

この時代、庶民が家を継ぐとか、苗字を継ぐとか、土地を継ぐとかということもなかったので、結婚する意義もさほどなかったのでしょう。
しかも、庶民ですから、働いて働いて年貢を納めて、一生を終える。
わざわざそんな生活を子々孫々までやらせたい・・・と、思うでしょうか。

この話を聞いて、

あらためて、「なぜ結婚を祈るのか」ということを考えさせられました。

結婚は、したいからするのか?
なぜ、結婚をしたいのか?するべきだと思うのか?

その動機を、ちゃんと持つことは、大事なのではないでしょうか。

人間は、自分の内側から湧き上がる動機によってしか行動することができません。
仮に動けたとしても、そこに強さはありません。大事な決断も、できません。

この課題に、目を背けずに向き合うべきだと思っています。

今の忙しさとか、目の前の楽しさに目をとられるのではなくて
ちょっと立ち止まって、本気で考えてみる。

そして、もう一歩踏み込んで、

神は私に結婚を通してどのようなことを願っているだろうか?

そんな視点からも、自分の結婚、婚活の動機を、考えてみてもいいんじゃないかな、
と思います。

2017年4月1日土曜日

「仕事」がクリスチャン婚活でも大事な理由

婚活の場(お見合いやパーティー)で、
相手の仕事(職業や働き方)が必ず紹介項目の一つとして取り上げられます。
どんな仕事を、どのような姿勢でしているか、ということは
クリスチャンの婚活においても、ないがしろにはできない・・・というのが現状です。


話は変わりますが、私は「労働」が大嫌いです。
「はーたーらーきーたーくーなーーいーーーー!!!」
と思いながら、仕事をしてしまいます。
だから、仕事が好き、という人を心から尊敬します。

辛くない仕事はないと思うし、
仕事が大好きという人もそんなに多くはないかもしれません。
(と、思いたい)

けれど、クリスチャンにとって「働く」ということは
実はとても大事なことです。

パウロは「労働」について、はっきりと語っています。

“また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。
外の人々に対してもりっぱにふるまうことができ、また乏しいことがないようにするためです。(Ⅰテサロニケ4:11~12)”

クリスチャンの真摯に働く姿は、それだけで証となるし、自分の糧も守られる、ということなんですね。

“どのように私たちを見ならうべきかは、あなたがた自身が知っているのです。
あなたがたのところで、私たちは締まりのないことはしなかったし、人のパンをただで食べることもしませんでした
かえって、あなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も労苦しながら働き続けました。それは、私たちに権利がなかったからではなく、ただ私たちを見ならうようにと、身をもってあなたがたに模範を示すためでした。”

パウロは自分で仕事をしながら、福音を伝える働きをしていました。
それは、献金がなかったからではなくて、
「日々の糧のための仕事」と「福音を伝えるための仕事」を両立する姿を模範として示すためだったようです。
これは、私たちにとっても、大きな励ましですね。

そのパウロがいいます。

“私たちは、あなたがたのところにいたときにも、働きたくない者は食べるなと命じました。ところが、あなたがたの中には、何も仕事をせず、おせっかいばかりして、締まりのない歩み方をしている人たちがあると聞いています。
こういう人たちには、主イエス・キリストによって、命じ、また勧めます。静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。(Ⅱテサロニケ3:7~12)”

ものすごい説得力・・・。
パウロ・・・厳しい・・・
でも、「静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい」と
キリストの名によって命じ勧めるのです。
どれほど強い勧めであり、それほどに大事なことだということだと思います。

働くことは、すごく、すごく、大事なことなんですね。


ヘブライ語の「労働」=「アダボー」「礼拝」という意味でもあります。
もともと天地創造の時から、人は神から地の被造物を管理する仕事を任され
喜んでそれをしていました。それが「働く」ということのはじまりです。
神様に任された務めをする・・・それは、まさしく奉仕だし、神様を讃える行動です。

働くことは、礼拝でもある。

日曜に教会に行って捧げるのも礼拝だけれど、
神を礼拝することは週に一度にしなさいなんて規定は聖書にはないですよね。
本当は、いつでも毎日でも神を礼拝するべきなんですよね。
それができない人間のために、日々の糧稼ぎを横においてでも、礼拝の時間を作るようにと神さまが「安息日」を備えてくださったんですよね。
(安息日はヘブライ語でシャバット。断絶する、切り離す、という意味だそうです。)

きちんと働いているということは、クリスチャンにとって、とても大事なことだと
聖書を通して教えられます。

であれば、
クリスチャンとしての結婚、また婚活においても
大事にされるのは、当然…ということになりそうです。

クリスチャンとの結婚を望んでいる人が、
お相手の仕事について気にするのは

経済力が豊かかどうか、とか
かっこいい仕事をしているか、とか
そういう肩書きのことではなくて

労働に対する姿勢と、
その労働を神様が祝福しているかどうか、
ということです。

だから、豊かな生活をしたいから年収が気になるのではなくて
年収がその人の信仰と神様からの祝福の一つの形だと思うから、
気にするのだとおもいます。
(でも、CCMでは年収いくら以上じゃないと結婚を考えられません、という人は
ほとんど見なくなりました。)
大抵の方は「年収にかかわらず、まじめに、誠実にお仕事している人がいいです」とおっしゃいます。(その基準はもちろん人によるのだけれど…)

いずれにしても
「働くこと」は、大事。

辛いけれど、大事。

仕事が辛いのは、仕方ないのです。
創世記3章の時点で
「あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。
地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、
あなたは野の草を食べるであろう。
あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る」
と神様から宣言されちゃいましたから。

けれど、辛さはただ辛さで終わらないはずなのです。
“神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、
あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。(ヘブル6:10)”
私たちの汗と涙を、神様は必ず覚えて報いてくださると信じます。


私が独身時代に職場の人間関係に悩み、仕事が嫌で嫌で仕方なかった時、
友人に教えてもらい励まされた聖書箇所があります。

“奴隷たちよ。あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。
人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、
キリストのしもべとして、心から神のみこころを行ない、
人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。
良いことを行なえば、奴隷であっても自由人であっても、
それぞれその報いを主から受けることをあなたがたは知っています。(エペソ6:5-8)”

社会の中で信仰を持って必死で働いている一人一人のために、心から祈っています。

あなたの労働が、
あなたの日々の糧だけでなく、
家族の日々の糧も支えることになる。
あなたの祝福だけでなく、家族の祝福にもなる。
あなたの礼拝だけでなく、家族での礼拝となる。

そう考えたら、
結婚における労働の恵みの広がりが
ちょっと素敵…ですよね♪