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2017年10月23日月曜日

体験的に知る

「クリスチャンらしい婚活をするために一緒に聖書を学ぼうじゃないか企画」
から三週間が経ちました。

3日に1話のペースで約1時間の講話を聞き、内容を理解して、理解したことと心にとまったことをアウトプットするということを、繰り返しています。
もちろん、内容はとても豊かで、ちゃんとつながりと展開があり、
続きを聞きたい!となる内容ではあるのですが・・・

1時間のインプットとそこからのアウトプット(文章化と発信)

社会人生活を送りながら、また婚活をしながら
聖書の学びに1時間以上の時間をさく、ということは
なかなかにハードだと思うのです。


が、


なんと


ほとんど脱落者がいません。


8割以上の方がほぼ「3日に1話のペース」で学びを続けています。

正直、驚いています。
(たぶん、やっている本人たちが一番驚いている)



なぜ続けられるのか・・・?

無料の企画です。なので
払った代金の価値だけは元を取らなきゃ!というわけでもありません。

特典(無料カウンセリングや紹介サポート)はあります。
でも、いくら無料とはいえこんなハードなことを3ヶ月やるより
サクッとしかるべき相談所へお金払って紹介してもらったほうがずっと楽でしょう。


今、この企画と参加者に何が働いているのか・・・
すごく不思議なことがおこっているような気がしてなりません。



そして、



学びと経験を同時に進めていく、ということが
もしかしたらとても意味があるのかもしれない

と、思わされています。



聖書の中で「知る」という言葉がよく出てきますが
その多くが「体験的に知る」という意味です。

知識としてわかる、だけでなく
知識として知った真理を
生活や、婚活の経験を通して確かにする。

たとえば「神への信頼によって希望を持つ」ということを
学びの中で知り、

生活の中の人間関係や、婚活の出会いや交わりなどの
試練や困難、うまくいかない体験の中で
実際にそのコトを適用し
「こういう苦しい状況の中でも神様を信頼する」
「目の前がまっくらだけど希望を持っていく」
「どうしたら、なにをどう拠り所にしたら
  神への信頼を握り、希望を持つことができるか」
ということを一生懸命考えることができます。

そして、その荒波をこえた時に
「神への信頼によって希望を持つ」ということが
自分の体と歴史に刻まれ、よりその真理を確信することができるのです。

より確信できた時に、信仰の土台は強化され
クリスチャンとしても成長させられると思います。

そこで培われたものは簡単には崩れないし
その後の歩みの中でも絶対に活かされていくと思います。

聖書の言葉を安易に適用することもよくないけれど、
聖書を学ぶことと、生活を生きることは、絶対切り離してはいけない。

聖書が与えられ、解き明かしを聞く機会が与えられ
日々の生活が与えられていることの意味を思い、
また感謝したいと思います。


どうか、学びのために、婚活しながら学ぶ一人一人のために
お祈りください。

また、このミニストリーのためにも、是非お祈りください。



2017年10月21日土曜日

妬みのメカニズム

先日、教えていただいた話の中に
とても面白い発見がありました。


妬みのメカニズム


妬むって

自分を人より上に見てるということが土台にある

自分はあの人より上なはずなのに
状況として、あの人より下になっている

上なはずなのに・・・!!と。


もし、自分がその人より下だと思っていたら

状況として、下になっていても

まぁ、そうだよね、で終わって

妬みの感情は起きないはず。



人と自分を横並べにして、上下つけたくなる
その感情はいったいなんなんだろう・・・


自分と神様だけの縦の関係だけを意識していられたら
そんなことしなくて済むかもしれない


あるいは、
キリストの姿にならって、へりくだって
「自分が人より上だ」という考えを
窓から外へ捨ててしまえたらいいかもしれない


あるいは、
人の目から見たら、私はあの人より下かもしれない
でも、神様から見たら私は唯一無二の作品で
たっぷりたっぷり愛してくださり、生きる価値がある
だから、別にいいや、と思えたらいいかもしれない


「妬み」の感情はやっかいだ

いいものは何も生み出さないし
心を蝕むばかりだ

そんな虫歯みたいなものは
放っておかずに
きちんと取り扱ったほうがいいように思う。

妬みの感情が
おきなくなることはないだろうけど
妬みを感じた時に
どう処理していくか・・・大事だと思う。

妬みの感情の隙間から、
悪魔は罠を仕掛けてくるから・・・。





2017年10月18日水曜日

耳を傾ける

お見合いパーティーを見ながら
交わり会の様子を見ながら

「傾聴」の難しさ

について考えます。


とても赤裸々な話になりますが

相手に興味がなくなりながら話を聞いている人の顔は
それはもう露骨に「興味ナイ」が出ています。

残酷なくらいに
「興味ナイ」顔になっています。

交わり会などになると
「あなたの話は別にいいんだけど」
な顔をしている人もいたりします。
それは、本当にそうとわかるような表情なのです。

そういうのを、客観的に見ていて
私としては、とてもさみしい気持ちになります。

だって、

自分が人にそんな顔をされたら
めちゃめちゃ辛いじゃないですか。
なんとなく自己嫌悪に陥ってしまうじゃないですか。
うまく表現できない部分を汲み取って欲しいと
心の中で必死に足掻いていて
それだけでも、もう崩折れてしまいそうなのに
目の前でシャッターおろされたら
なんだか絶望的になるじゃないですか。


話を聞いていて
「なんだ?」と思うこともあるし
「何言ってんの?」と思うこともあるし
「なぜそんな話し方?」と思うこともあります

でも、その先や、その奥を
もう少しだけ見守りながら探ってあげたい
そしたら自分も納得できることもあるかもしれない
そしたらその人を好きになれるかもしれない

そう思って「耳を傾けてみる」

そんなちょっとした忍耐と優しさが
クリスチャンにはあってほしいなぁ、と
願ったり祈ったりするのです。


神様は、罪に縛られどうしようもなく、不器用で頑なな私たちに対して
忍耐をもって愛してくださっています。

ものわかりの悪い私たちのために、キリストは
「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのかわからないのです」
と十字架の痛烈な痛みと苦しみの中で、とりなして祈ってくださいました。

神が私たちに注がれた愛を覚えていたい。
その愛をしっかりと心で握りながら
いろんな人と向き合うことができたら・・・と
思います。


2017年10月10日火曜日

「気分の浮き沈み」と「信仰の一貫性」の違いと影響

人だから気分が浮いたり沈んだりします
信仰が熱くなったりぬるくなったりします

でも、

その中にあっても

神の愛と導きを信じる
自分がキリストの十字架によって救われたことは信じる
永遠のいのちの約束が与えれたことを信じる
神が自分の将来を握り、それは希望あるものだと信じる

そういう信仰の根底は手放すことはない
ならば

気分の浮き沈みはあっても、
信仰には一貫性がある
と言えると思います。

そういう人は、周りから見て
落ち込んでても元気でも、見ていて安心感と信頼感を感じます。

ところが

身の回りの状況や、自分の感情に応じて
神を疑ったり、救いを疑ったり、天国を疑ったり
希望を見失い続けていたり・・・

ということは

救いの根本、福音の根本をしっかり握っていない
本当には信じていない
ということではないか?
と思うことがあります。

簡単に言えば、信仰に一貫性がないように思えるのです。

気分が落ち込んでいると、その人の中で神も希望も無くなる・・・
気分が上がると、神はいる!愛だ!!ハレルヤ!!となる・・・

その姿は、見ていて非常に不安と奇妙さを感じます。


これまでの、クリスチャンの結婚のいろんなケースを見ても

弱さがあっても、信仰に関しては一貫性のある人は
結婚に導かれていったように思います。
(CCMには弱さがない人はほぼいませんが…)

逆に

強がっていても、生活レベルや地位がしっかりしている人でも

信仰の一貫性のない人は
なかなか導かれないように思います。

なぜなら、その一貫性のなさが、
交わりを破壊させ、人間関係の構築を妨げてしまうから
ではないかと思います。

もちろん、導きには神の時がありますから、
今まだ結婚に至ってないすべてのひとが
信仰に一貫性がないと言っているのではありません。

けれど
今の自分の状態が、どちらなのか。
クリスチャンは常に省みる必要があるのではないかと思うのです。
「目を覚ましていなさい」と聖書の中で何度も語られているように…。

クリスチャンの婚活はごまかしがきかない・・・
とよく思います。

恋愛ならば、感情的な盛り上がりで、結婚に至ることもあるかもしれない。

けれど、婚活はもっと冷静で客観的視点が入る分だけ
感情的に勢いでもっていくことは難しいのです。
「いや、まてよ、盛り上がってるけど、これは本当にいいのか?」
という声が必ずどちらかの、あるいは両者の頭の中で響くからです。

それが、クリスチャン婚活の特徴でもあると思います。


婚活にはいろんなテクニックがあるのも事実です。
誤解をうまないために注意していい事項もあります。

けれど、人間は霊的な生き物です。
霊的な部分はテクニックでは補えないし、
そもそも信仰に一貫性のない人はテクニックを使いこなすことができません。
なぜなら、テクニックを使いこなすには安定した精神状態、精神のコントロールや自制が絶対に必要だからです。

そして
霊的なゆがみは必ず伝わります。少なくとも神の目には明らかです。

霊・肉、共に整えていくこと…
霊・肉、共に誠実であること…


大切にしてもいいことじゃないかな、と思います。





2017年10月5日木曜日

希望をもつ秘訣

今、「クリスチャンらしい婚活をするために聖書を一緒に学ぼう」企画を
絶賛遂行中です。

ハーベストタイムミニストリーズの
「30日でわかるマタイの福音書」全30回の講座動画を見て
フィードバック(感想)をお互いにシェアする
ということをやっています。

最終的に23人(5グループ)でやっています。

同じメッセージを聞いて、23通りの感想があります。
その人の状況、心理状態、これまでの過程によって、
心にヒットするところはまちまちです。
それを分かち合って、また気づくことがある。

そして、この「30日でわかるマタイの福音書」のメッセージが
非常にわかりやすく、こころに染み渡る、あるいは刺さり
約1時間のメッセージですが、聴き始めたらあっという間なのです。

今、マタイの1章、2章を経過中ですが
そこで大きくテーマになっていることの1つが

「希望」

です。


そして、ちょっと目からウロコなのが


希望は、確信からうまれる。
確信は、事実の検証からうまれる。

ということのように思います。


ただふんわり「いいことが起こる、うまくいく」と思うのは
希望ではなく、
たぶん
希望的観測であり
その土台は自分の“感情・感覚・フィーリング”ではないでしょうか。

けれど、これほど弱い土台はない・・・

聖書に由来する希望というのは

聖書を通して、
神様が人と約束をし、それを約束通りに成し遂げた歴史を
検証していく

聖書を通して、
神が人と共にいた歴史を1つ1つ確かめていく

そして、
約束をかならず成し遂げる神が、
この歴史の中でずっと人とともにあった
ならば、
今も、同じ神が、
私の人生に対する約束を必ず成し遂げ
私とずっと共にあるはずだ!

という理論によって確信を得る。

その確信の土台は歴史的事実なので、ゆるぎません。
だって、実際起きたんだもん。
可能性で言えばアリだったんだもん。
ナイなんていえないじゃないですか。

そのゆるがない確信があるから、希望をもてる。
神が、私の人生に対する約束を必ず成し遂げ
私とずっと共にある!
というコトは、とてもポジティブな内容です。

ポジティブな内容の確信からは、希望がうまれるのは当然です。


そして、不安になったら、
立ちもどれる場所・・・聖書がある。
聖書に記録された世界、事実たちが、
語りかけ、励ましてくれる。



それが、クリスチャンの希望の持ち方だよ
と、
今教えられています。


婚活という試練、荒波にあって
希望は必須です。

この「希望をもつ秘訣」
おすすめです。

希望をもつために、
是非聖書を開いて、探してみてほしいな、と思います。


2017年10月2日月曜日

心の部屋を明け渡す

何か起こった時
とくに
心にもやっとすること
心にムカッとすること
心に不安を感じること
ぐぐぐーっと力が入ること
強い願い・・・

そういうときは

主に委ねましょう・・・
思いを手放しましょう・・・
と言われますよね。

「何も思い煩わないで、
あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、
あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、
あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。
(ピリピ4:6〜7)」

このみことばが、そういわれる元になっていると思うのですが


ずっと

それってどういうこと?

と思っていました。

なんだか、
良いにしろ悪いにしろ、その強い思いを
自分の手から放すというのは
やっぱり怖かったり、
なんか無責任じゃないかって思ったり
していたんです。


けれど、ある時
すごくわかりやすい表現、イメージ
を教えていただきました。

ーーーーーーーー

私たちの心は
大邸宅のようなもので
その心の大邸宅に
私たちは神様をお迎えした。
(福音を受け入れ、信じ、心と人生に神を迎えた)

けれど、大邸宅なので
たくさんの部屋がある。

神様は、広いロビーには入っている。
けれど、すべての部屋には入れていなくて

私が部屋をあけて神を迎えると
神様はその部屋に入って、そこに住み、部屋を整えたり
素敵にしたりしてくれる。
一緒にいてくつろげる部屋に整えてくれる。
そんなふうに、神が働かれる・・・。

何かを握っているということは
その部屋が
頑なな「開かずの間」になっていて
家主が部屋の鍵をあけないと、
ロビーまで招いた神様も入ることはできないんだよ。

ーーーーーーーー

ね、
素敵なイメージじゃないですか?


この話を聞いてから、

なにか強い思いがあったり、強い不安があったり、
自分の頭でこだわりそうになったとき
ほぼあらゆるときに

「神様、心のこの部屋を明け渡します。どうぞ働いてください。」

と祈るようになりました。

この祈りをすると
すーーっと平安が心に広がります。

他人に見せられないようなぐっちゃぐちゃになった部屋
自分でもどうすることもできない部屋を
神様に対して開いて、入っていただいて
整理してもらい、さらに素敵にしてもらう。

そんなことしていただけるなんて
もう、感謝しかわかない・・・
嬉しいし、そうしてもらえる安心感があります。


「何も思い煩わないで、
あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、
あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、
あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。
(ピリピ4:6〜7)」


アーメン!