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2017年4月5日水曜日

クリスチャン婚活にオシャレは必要か?

ふと気づくと
「めんどくさい・・・」
と、ノーメイクにダボダボヨレヨレの服を着て、外に出て
夕飯の食材を買いに行ったりしてしまいます。

「いかんな・・・」

出てしまってから、やっぱりそう思って反省・・・。

そして、夫のエピソードを思い出す。
主人がまだ結婚する前、女友達(完全に友達)と飯でも食うか、となったとき、
女友達が毛玉のついたジャージで待ち合わせに登場、その服装でレストランへ入っていった。「女としてはドン引きだわ」と思ったそうです。

「このままでは、ジャージでレストランになってしまう」

基本ぐーたらで、オシャレも何も興味はないのだが、
自分をちょっとだけ奮い立たせます。


クリスチャン婚活で、オシャレは必要だろうか?
クリスチャンにとって、オシャレは必要なのだろうか?

オシャレ・・・の意味するところにもよるけれど、
「身なりを整える」ということに関して、聖書は決して否定していない。
いや、おすすめしているように思えます。

旧約聖書のモーセを通じてイスラエルの民に与えられた律法の中で、
祭司の身なりについてはかなり詳細に規定されています。
“ 彼らの作るべき衣服は次のとおりである。すなわち胸当、エポデ、衣、市松模様の服、帽子、帯である。彼らはあなたの兄弟アロンとその子たちとのために聖なる衣服を作り、祭司としてわたしに仕えさせなければならない。(出エジプト28:4)”

神の前に、民の代表として仕える者は、そういう者として
身なりを整えるようにと神様から言われているのです。
ちなみに、祭司となれるのは男性。(男性も身なりを整える必要が書かれている)

イザヤ書には
“わたしは主を大いに喜び、わが魂はわが神を楽しむ。主がわたしに救の衣を着せ、義の上衣をまとわせて、花婿が冠をいただき、花嫁が宝玉をもって飾るようにされたからである。(61:10)”
とあります。
ふさわしい身なりで、ふさわしい装飾をつけ、飾られて、主を喜び神を楽しむ、のだそうです。もちろんこの身なり装飾はリアルではなく比喩表現だけれど、
少なくとも汚いみすぼらしい格好で神を喜ぶのではないようです

  
マタイ22章におもしろい例え話があります。
“ 天国は、ひとりの王がその王子のために、婚宴を催すようなものである。
・・・王は客を迎えようとしてはいってきたが、そこに礼服をつけていないひとりの人を見て、 彼に言った、『友よ、どうしてあなたは礼服をつけないで、ここにはいってきたのですか』。しかし、彼は黙っていた。
そこで、王はそばの者たちに言った、『この者の手足をしばって、外の暗やみにほうり出せ。そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。”
婚礼の席には礼服をつける!でないと、追い出されてしまします。
TPOに合わせてあるべき身なりを整えるべき、ということが描かれています。

よく身なりで取り出されるみことばが
“ また、女はつつましい身なりをし、適度に慎み深く身を飾るべきであって、髪を編んだり、金や真珠をつけたり、高価な着物を着たりしてはいけない。(第一テモテ2:9 )”
よーく見ると
「適度に慎み深く身を飾るべき」とあります。
身を飾るなとは書いていないのです。
過度に着飾るのはおかしいけれど、「適度に身を飾る」ことはすすめられているのです。

オシャレは面倒臭い。
だから、しない。
似合わない気がする。
だから、しない。
私はこれでいいのだ。
だから、しない。

けれど、適度に身を飾る、ふさわしい身なりをする、ということは

時に備える、ということでもあるのではないでしょうか。

そう、マタイ25章の「十人の花嫁」のたとえ話を読んでいて思うのです。

“天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。
そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。 花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。
ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。
娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。 ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』
しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』 そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。 しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。
だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。”

備える・・・のは、事前にやってこそ、備える、なのです。
わたしたちは「その日、その時を知らない」

この例え話は、終わりの日について、キリストの再臨についてだけど、
私たちの人生の「時」についても同じことが言えると思います。

未来の結婚相手は、いつ現れるかわからない。
いつ運命の出会いがあるかはわからない。
だから、「備え、整えて」おいたほうがいいのではないでしょうか。
心も、身なりも。

素敵な人に会えたら、身なりを整える・・・ではたぶん遅い。

身なりというのは、人の目に大きなインパクトを与えます。

そして、身なりはその人の中身の表れ、ということも言われますよね。

ちなみに・・・バプテスマのヨハネは「らくだの毛衣に腰に皮の帯」というすごい格好をしていたけど、素晴らしい人だったじゃないか、という人がいるかもしれないけれど、
あれは、ヨハネの預言者としての正装です。旧約の時代に預言者エリヤがしていた格好で、そのことをイスラエル人は皆知っているから、一目見てヨハネをすごい預言者なんだ、とわかった、いわばしるしとなっているのです。


オシャレはめんどくさい。

でも、自分に似合い、自分らしく、自分を表現する身なりを
しっかり整えておくと、いいのではないかな、と思います。

できれば・・・

花嫁姿、花婿姿がとてもじゃないけど想像できない・・・
という身なりは、やめておいたほうがいいかもしれないですね。

私も、身なりを整えて、シャキッとしていたいと思います。


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