恋は盲目・・・盲目なほど熱い恋の果てに二人は結ばれ結婚する・・・
というイメージが、少なくとも20代の私にはあった。
恋愛体質だったのでそんな恋愛にも憧れがあったし、
同時に結婚願望があったので、こんなイメージになったんだと思う。
実際には、盲目な恋と結婚は両立しなかった。
20代、結婚適齢期と言われる年齢で、
盲目にして絶対結婚につながらないような恋ばかりをして
挙げ句の果てに、傷つきすぎて恋愛恐怖症になり、
気づけば30代になっていた。
人を好きになるのは、素敵なことだ。
「人を好きにならないようにしよう」これほど悲しく寂しい気持ちはないと思う。
神は人を愛するし、私たちはその本質において神に似せて造られているのだから
好きになる、愛するというのは、極めて自然なことだと思う。
結婚につながる恋と、つながらない恋はどう違うのか。
盲目の恋は、どうして幸せな結婚にならないのか・・・
聖書の中に、
盲目の恋と、そうでない恋のストーリーがそれぞれある。
盲目の恋は、ダビデとウリヤの妻バテシェバのストーリー。
Ⅱサムエル記11章にある。
ダビデが、ある夕暮れ時、昼寝から目を覚まして、王宮の屋上を歩いていると、下の方のある家で女の人が体を洗っているのを見かける。そして、その女性は非常に美しかった。それが、バテシェバという女性で、自分の部下ウリヤの妻とわかるのだが、わかっていながら召し上げて、寝てしまう。そして、子供ができてしまう。ダビデは、夫であるウリヤを激戦の真正面に出し、意図的に戦士させてしまう。
あぁ、盲目の恋の恐ろしさ・・・人間の欲求の強さと、その狂気を感じる。
結局、ダビデはバテシェバを正式に妻として迎え入れたし、バテシェバはソロモンの母となるし、その系図の末にイエスキリストが誕生する。
でも、11章の最後にはっきりと書いてある。
「しかし、ダビデの行ったことは主のみこころを損なった」
そして、預言者ナタンを通じて神はダビデにこの罪についてはっきりと追及したし、この不倫の時の子どもは死んで、ダビデとバテシェバは絶望的な悲しみを味わうのだ。
盲目の恋は、盲目のゆえに道を踏み外す。
神様はその罪はゆるさない、はっきりと裁く、ということがわかる。
こわ・・・(- -;)
気を取り直して、
そうでない恋のストーリーは、雅歌のソロモンとシュラムの女の恋だ。
雅歌は本当に熱烈な二人の恋のやりとりが描かれている。表現も大胆で、現代の私たちが読んでも鼻血がでそうである。
すごくお互いを想い合い、求めていて、夢を見るほど会いたくて(ドリカムlovelovelove状態)・・・
でも、想いが募るほどそのピークでこう言うのだ
「揺り起こしたり、かきたてたりしないでください。愛が目覚めたいと思うときまでは。」
結婚のその日までは、我慢させて!誰も何も、私の心をかきたてないで!
・・・大事な一線はどんなに気持ちが盛り上がっても超えない、理性。
そして、たくさんの「相手にあげたいもの」「相手を褒める、讃える言葉」が
雅歌には書かれています。
奪うよりも、与える愛・・・
本当の愛は、与えたい讃えたい気持ちでいっぱいになるのかもしれない。
神はソロモンとシュラムの女の結婚を祝福したかどうか・・・
ご存知のように、ソロモンは政治的な理由でいろんな国の女性と重婚しています。
神様は、この時代、律法の中でイスラエル人の異邦人との結婚を許していません。
「シュラム」というのは、おそらくイスラエルの町「シェネム」だと思われます。
つまり、シュラムの女はイスラエル人。だから、この結婚は神の御心にかなったもので、
大いに祝福を受けたと思われます。
さあ、いかがでしょうか。
盲目の恋の、悲劇。
そうでない恋のポイントと祝福。
何が違うのか、どこが違うのか、
超えてはいけないラインはなんなのか・・・
なんとなく見えてきたのではないでしょうか。
恋をすれば結婚ができるわけじゃない
(恋する気持ちが幸せな結婚の鍵ではない)
そして
幸せな結婚のために愛がある
(二人をより結びつけていくために愛がある)
さぁ、そんなわけで、
ソロモンに出会うために
シュラムの女に出会うために
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