top

2017年3月25日土曜日

婚活は恋活ではなくて愛活

婚活というのは、
意図的に結婚を前提にした異性との出会いの場に出て行き、相手と巡り会う活動です。
具体的には、お見合いや合コン、パーティーに参加し、理想に合う人、結婚したいかもと思う人と知り合っていきます。

お見合い・・・というと、一昔前の、親が決めた相手や家同士で決まった相手、紹介された相手と結婚が決まっていく、そこに本人たちの気持ちがついてこないとしても・・・というイメージがあるかもしれません。

まるで、恋愛結婚の真逆の位置に立っているようなイメージもあるかもしれません。

けれど、
最近のお見合いは、そうでもなくて、本人たちが選ぶ結婚です。
だから、物理的、条件的に納得できれば結婚が決まるのでもなく、
とにかく、本人たちの気持ちが納得しないと結婚には至りません。

じゃあ、普通の恋愛と同じじゃない?と思うかもしれません。

そう、出会い方が意図的なだけで、ほぼ変わりません。

相手に好意を持たなければ、進まない。
お見合いだって恋を経るのだ・・・

ただ、私は、ここに一つ落とし穴があるような気がしています。

「お見合いだって、恋しなきゃ結婚できない」
と思うことで、
恋という「自分の気持ちの揺れ方」に気を取られていくのです。

この「気持ちの揺れ」がやっかいなのです。もっと言うと「恋」のイメージです。

あなたにとって、「恋」ってどんなものですか?どんな気持ちでしょうか?

キュンっとする感じ、
胸が苦しい感じ、
切ない感じ、
追い求める感じ、
欲しいと思う感じ、
試練を乗り越える感じ、
ときに泣きたくなるほど慕う感じ、
意外性をもってドキドキする感じ、
憧れる感じ、
刺激がある感じ、

だとしたら、
その恋の感情を追い求めた先に「あたたかい家庭」とか「平和、平安」
があるでしょうか・・・?

と、私は、ふと思ってしまったのです。

もし、クリスチャンならば、
めざすのは「恋」ではなくて「愛」なんじゃないかな、と思うのです。

“愛は寛容であり、愛は親切です。
また人をねたみません。
愛は自慢せず、高慢になりません。
礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。
すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
愛は決して絶えることがありません。(コリント人への手紙I 13:4〜8)”

一つ一つみると、「恋」は、聖書の言う「愛」とは違うように見えませんか?

【愛】人をねたみません
【恋】嫉妬、あの人を獲得したいという思い

【愛】高慢になりません
【恋】相手にこうしてほしいと願う思い(自分は変わらない)

【愛】自分の利益を求めず・・・
【恋】自分が喜びを味わいたい

【愛】怒らず・・・
【恋】刺激や切なさ、負の感情みたいのものも求める

【愛】決して絶えることがない
【恋】いつか終わる…のも含め恋の切なさ

なんだか、むしろ、逆にあるような気もします。

だから、「恋」を味わうことと「愛」のある結婚は、
別のこととして捉えた方がいいように思うのです。


一度、お見合いのとき、パーティーのとき、結婚を考える時
自分の視点、なにが心の中で動いているのか、見返してみるといいかもしれません。

恋を求めているのか?愛を求めているのか?

聖書を土台とした結婚には、聖書を土台とした婚活がベストだと思います。
みことばが表すことを大切にすることが、良き出会いに結びつくのではないかな、と思います。そう信じたいです。


0 件のコメント:

コメントを投稿